約束の音信《たより》は至る所からあった。勘定《かんじょう》すると大抵日に一本ぐらいの割になっている。その代り多くは旅先の画端書《えはがき》に二三行の文句を書き込んだ簡略なものに過ぎなかった。僕はその端書が着くたびに、まず安心したという顔つきをして、妻《さい》からよく笑われた。一度僕がこの様子なら大丈夫らしいね、どうも御前の予言の方が適中したらしいと云った時、妻は愛想《あいそ》もなく、当り前ですわ、三面記事や小説見たような事が、滅多《めった》にあってたまるもんですかと答えた。僕の妻は小説と三面記事とを同じ物のごとく見傚《みな》す女であった。そうして両方とも嘘《うそ》と信じて疑わないほど浪漫斯《ロマンス》に縁の遠い女であった。
端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰《しょかん》に接し出した時さらに眉《まゆ》を開いた。というのは、僕の恐れを抱《いだ》いていた彼の手が、陰欝《いんうつ》な色に巻紙を染めた痕迹《こんせき》が、そのどこにも見出せなかったからである。彼の状袋の中に巻き納めた文句が、彼の端書よりもいかに鮮《あざや》かに、彼の変化した気分を示しているかは、実際それを読んで見ないと分らない。ここに二三通取ってある。
彼の気分を変化するに与《あず》かって効力のあったものは京都の空気だの宇治の水だのいろいろある中に、上方《かみがた》地方の人の使う言葉が、東京に育った彼に取っては最も興味の多い刺戟《しげき》になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云うと馬鹿げているが、市蔵の当時の神経にはああ云う滑《なめ》らかで静かな調子が、鎮経剤《ちんけいざい》以上に優しい影響を与え得たのではなかろうかと思う。なに若い女の? それは知らない。無論若い女の口から出れば効目《ききめ》が多いだろう。市蔵も若い男の事だから、求めてそう云う所へ近づいたかも知れない。しかしここに書いてあるのは、不思議に御婆さんの例である。――
「僕はこの辺の人の言葉を聞くと微《かす》かな酔に身を任せたような気分になります。ある人はべたついて厭《いや》だと云いますが、僕はまるで反対です。厭なのは東京の言葉です。むやみに角度の多い金米糖《こんぺいとう》のような調子を得意になって出します。そうして聴手《ききて》の心を粗暴にして威張ります。僕は昨日《きのう》京都から大阪へ来ました。今日朝日新聞にいる友達を尋ねたら、その友人が箕面《みのお》という紅葉《もみじ》の名所へ案内してくれました。時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓川《たにがわ》があって、山があって、山の行き当りに滝があって、大変好い所でした。友人は僕を休ませるために社の倶楽部《クラブ》とかいう二階建の建物の中へ案内しました。そこへ這入《はい》って見ると、幅の広い長い土間が、竪《たて》に家の間口を貫ぬいていました。そうしてそれがことごとく敷瓦《しきがわら》で敷きつめられている模様が、何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。この家は何でも誰かが始め別荘に拵《こしら》えたのを、朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだとか聞きましたが、よし別荘にせよ、瓦《かわら》を畳んで出来ている、この広々とした土間は何のためでしょう。僕はあまり妙だから友人に尋ねて見ました。ところが友人は知らんと云いました。もっともこれはどうでも構わない事です。ただ叔父さんがこう云う事に明らかだから、あるいは知っておいでかも知れないと思って、ちょっと蛇足《だそく》に書き添えただけです。僕の御報知したいのは実はこの広い土間ではなかったのです。土間の上に下りていた御婆《おばあ》さんが問題だったのです。御婆さんは二人いました。一人は立って、一人は椅子《いす》に腰をかけていました。ただし両方ともくりくり坊主です。その立っている方が、僕らが這入《はい》るや否《いな》や、友人の顔を見て挨拶《あいさつ》をしました。そうして『おや御免《ごめん》やす。今八十六の御婆さんの頭を剃《そ》っとるところだすよって。――御婆さんじっとしていなはれや、もう少しだけれ。――よう剃ったけれ毛は一本もありゃせんよって、何も恐ろしい事ありゃへん』と云いました。椅子に腰をかけた御婆さんは頭を撫《な》でて『大きに』と礼を述べました。友人は僕を顧《かえり》みて野趣があると笑いました。僕も笑いました。ただ笑っただけではありません。百年も昔の人に生れたような暢気《のんびり》した心持がしました。僕はこういう心持を御土産《おみやげ》に東京へ持って帰りたいと思います」
僕も市蔵がこういう心持を、姉へ御土産として持って来てくれればいいがと思った。
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