2008年11月19日水曜日

 敬太郎《けいたろう》は先刻《さっき》から頭の上らない田口の前で、たった一言《ひとこと》で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌《きざ》した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊《うかつ》なものに見極《みきわ》められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後《あと》なんか跟《つ》けるより、直《じか》に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数《てかず》が省《はぶ》けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
 これだけ云った敬太郎は、定めて世故《せこ》に長《た》けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目《まじめ》な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの考《かんがえ》がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼《おたのみ》申したのは私《わたし》が悪かった。人物を見損《みそく》なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有《も》っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止《よ》しゃあよかった……」
「いえ須永《すなが》君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい思《おもい》をして答えた。
「そうでしたか」
 田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄《す》てたなり、それ以上に追窮する愚《ぐ》をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
 田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更《まんざら》の冗談《じょうだん》とも思えなかったので、彼は紹介状を携《たずさ》えて本当に眉間《みけん》の黒子《ほくろ》と向き合って話して見ようかという料簡《りょうけん》を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「宜《い》いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直《じか》に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩|後《あと》を跟《つ》けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜《よ》うござんす。私《わたし》に遠慮は要《い》らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
 田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴《やつ》だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分|会《あ》い悪《にく》い方《ほう》なんだから、そんな事をむやみに喋《しゃ》べろうものなら、直《すぐ》帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
 敬太郎は固《もと》より畏《かしこ》まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折《なかおれ》の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。

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