2008年11月18日火曜日

二十二

 この細い石段を思い思いの服装《なり》をした六人が前後してぞろぞろ登る姿は、傍《はた》で見ていたら定めし変なものだったろうと思う。その上六人のうちで、これから何をするか明瞭《はっきり》した考を有《も》っていたものは誰もないのだからはなはだ気楽である。肝心《かんじん》の叔父さえただ船に乗る事を知っているだけで、後は網だか釣だか、またどこまで漕《こ》いで出るのかいっこう弁別《わきま》えないらしかった。百代子の後《あと》から足の力で擦《す》り減《へ》らされて凹みの多くなった石段を踏んで行く僕はこんな無意味な行動に、己《おの》れを委《ゆだ》ねて悔いないところを、避暑の趣《おもむき》とでも云うのかと思いつつ上《のぼ》った。同時にこの無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗《あん》に演ぜられつつあるのでは無かろうかと疑ぐった。そうしてその一幕の中で、自分の務《つと》めなければならない役割がもしあるとすれば、穏《おだや》かな顔をした運命に、軽く翻弄《ほんろう》される役割よりほかにあるまいと考えた。最後に何事も打算しないでただ無雑作《むぞうさ》にやって除《の》ける叔父が、人に気のつかないうちに、この幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際《てぎわ》を有《も》った作者と云わなければなるまいという気を起した。僕の頭にこういう影が射した時、すぐ後《あと》から跟《つ》いて上《あが》って来る高木が、これじゃ暑くってたまらない、御免蒙《ごめんこうむ》って雨防衣《レインコート》を脱ごうと云い出した。
 家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に杓子《しゃくし》が一つ打ちつけてあって、それに百日風邪《ひゃくにちかぜ》吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名がようやく分った。それを見つけ出して、みんなに聞こえるように読んだのは、目敬《めざと》い吾一の手柄であった。中を覗《のぞ》くと天井も壁もことごとく黒く光っていた。人間としては婆さんが一人いたぎりである。その婆さんが、今日は天気がよくないので、おおかたおいでじゃあるまいと云って早く海へ出ましたから、今浜へ下りて呼んできましょうと断わりを述べた。舟へ乗って出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だろうと答えて、手で海の上を指《さ》した。靄《もや》はまだ晴れなかったけれども、先刻《さっき》よりは空がだいぶ明るくなったので、沖の方は比較的|判切《はっきり》見える中に、指された船は遠くの向うに小さく横《よこた》わっていた。
「あれじゃ大変だ」
 高木は携《たずさ》えて来た双眼鏡を覗《のぞ》きながらこう云った。
「随分|呑気《のんき》ね、迎《むか》いに行くって、どうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう」と千代子は笑いながら、高木の手から双眼鏡を受取った。
 婆さんは何|直《じき》ですと答えて、草履《ぞうり》を穿《は》いたまま、石段を馳《か》け下りて行った。叔父は田舎者《いなかもの》は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんの後《あと》を追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は五坪《いつつぼ》にも足りなかった。隅《すみ》に無花果《いちじく》が一本あって、腥《なま》ぐさい空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない実《み》が云訳《いいわけ》ほど結《な》って、その一本の股《また》の所に、空《から》の虫籠《むしかご》がかかっていた。その下には瘠《や》せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を餓《う》えた嘴《くちばし》でつついていた。僕はその傍《そば》に伏せてある鉄網《かなあみ》の鳥籠《とりかご》らしいものを眺《なが》めて、その恰好《かっこう》がちょうど仏手柑《ぶしゅかん》のごとく不規則に歪《ゆが》んでいるのに一種|滑稽《こっけい》な思いをした。すると叔父が突然、何分|臭《くさ》いねと云い出した。百代子は、あたしもう御魚なんかどうでも好いから、早く帰りたくなったわと心細そうな声を出した。この時まで双眼鏡で海の方を見ながら、断《た》えず千代子と話していた高木はすぐ後《うしろ》を振り返った。
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
 彼はそう云いながら、手に持った雨外套《レインコート》と双眼鏡を置くために後《うしろ》の縁を顧《かえり》みた。傍《そば》に立った千代子は高木の動かない前に手を出した。
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
 そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の半袖姿《はんそですがた》を見て笑いながら、「とうとう蛮殻《ばんから》になったのね」と評した。高木はただ苦笑しただけで、すぐ浜の方へ下りて行った。僕はさも運動家らしく発達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りるために手を振るごとに動く様を後から無言のまま注意して眺《なが》めた。

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