2008年11月19日水曜日

 この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに風呂《ふろ》から帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門を潜《くぐ》って来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの敬太郎《けいたろう》に取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
 その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌《い》む浪漫趣味《ロマンチック》の青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松《こだまおとまつ》とかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年《ていねん》未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。その中《うち》でも音松君が洞穴の中から躍《おど》り出す大蛸《おおだこ》と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて短銃《ピストル》をポンポン打つんだが、つるつる滑《すべ》って少しも手応《てごたえ》がないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た小蛸《こだこ》がぐるりと環《わ》を作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯《からかい》半分に、君のような剽軽《ひょうきん》ものはとうてい文官試験などを受けて地道《じみち》に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな蛸狩《たこがり》でもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川《たがわ》の蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ流行《はや》り出した。この間卒業して以来足を擂木《すりこぎ》のようにして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼らはどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていたくらいである。
 南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと奇抜《きばつ》過ぎるので、真面目《まじめ》に思い立つ勇気も出なかったが、新嘉坡《シンガポール》の護謨林《ゴムりん》栽培などは学生のうちすでに目論《もくろ》んで見た事がある。当時敬太郎は、果《はて》しのない広野《ひろの》を埋《う》め尽す勢《いきおい》で何百万本という護謨の樹が茂っている真中に、一階建のバンガローを拵《こしら》えて、その中に栽培監督者としての自分が朝夕《あさゆう》起臥《きが》する様を想像してやまなかった。彼はバンガローの床《ゆか》をわざと裸にして、その上に大きな虎の皮を敷くつもりであった。壁には水牛の角を塗り込んで、それに鉄砲をかけ、なおその下に錦の袋に入れたままの日本刀を置くはずにした。そうして自分は真白なターバンをぐるぐる頭へ巻きつけて、広いヴェランダに据《す》えつけてある籐椅子《といす》の上に寝そべりながら、強い香《かおり》のハヴァナをぷかりぷかりと鷹揚《おうよう》に吹かす気でいた。それのみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――天鵞絨《びろうど》のような毛並と黄金《こがね》そのままの眼と、それから身の丈《たけ》よりもよほど長い尻尾《しっぽ》を持った怪しい猫が、背中を山のごとく高くして蹲踞《うずく》まっている訳になっていた。彼はあらゆる想像の光景をかく自分に満足の行くようにあらかじめ整えた後で、いよいよ実際の算盤《そろばん》に取りかかったのである。ところが案外なもので、まず護謨《ゴム》を植えるための地面を借り受けるのにだいぶんな手数《てすう》と暇が要《い》る。それから借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植えつけに費やすべき金高《かなだか》が以外に多い。その上絶えず人夫を使って草取をした上で、六年間|苗木《なえぎ》の生長するのを馬鹿見たようにじっと指を銜《くわ》えて見ていなければならない段になって、敬太郎はすでに充分退却に価すると思い出したところへ、彼にいろいろの事情を教えてくれた護謨|通《つう》は、今しばらくすると、あの辺でできる護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと威嚇《いかく》したので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。

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