2008年11月18日火曜日

「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人《いちにん》なんだが……」と敬太郎《けいたろう》が云い出した時、須永《すなが》と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖《ステッキ》を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯《からか》い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻《りぜ》めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日《はたび》にだけ突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を逃《のが》れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過《ひるすぎ》であった。千代子は松本の好きな雲丹《うに》を母からことづかって矢来《やらい》へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩《ゆっ》くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭《かしら》に、男、女、男と互違《たがいちがい》に順序よく四人の子が揃《そろ》っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華《はな》やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子《よいこ》を、指環に嵌《は》めた真珠のように大事に抱《だ》いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆《うるし》のように濃い大きな眼を有《も》って、前の年の雛《ひな》の節句の前の宵《よい》に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛《かわい》がっていた。来るたんびにきっと何か玩具《おもちゃ》を買って来てやった。ある時は余り多量に甘《あま》いものをあてがって叔母から怒《おこ》られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側《えんがわ》へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩《けんか》でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯《からか》った。
 その日も千代子は坐ると直《すぐ》宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代《さかやき》を剃《そ》った事がないので、頭の毛が非常に細く柔《やわら》かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢《うるおい》の多い紫《むらさき》を含んでぴかぴか縮《ちぢ》れ上っていた。「宵子さんかんかん結《い》って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧《ていねい》にその縮れ毛に櫛《くし》を入れた。それから乏しい片鬢《かたびん》を一束|割《さ》いて、その根元に赤いリボンを括《くく》りつけた。宵子の頭は御供《おそなえ》のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅《かたすみ》へ乗せて、リボンの端《はじ》を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞《ほ》めると、千代子は嬉《うれ》しそうに笑いながら、子供の後姿を眺《なが》めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図《さしず》した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ這《ばい》になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は頸《くび》を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴《ふちょう》であった。後《うしろ》に立って見ていた千代子は小《ち》さい唇《くちびる》から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。

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