2008年11月19日水曜日

三十二

 敬太郎《けいたろう》は手に持った洋杖《ステッキ》をそのままに段々を上《のぼ》り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。彼は給仕の後《うしろ》から自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。するとそこに先刻《さっき》注意した黒の中折帽《なかおれぼう》が掛っていた。霜降《しもふり》らしい外套《がいとう》も、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。給仕がその裾《すそ》を動かして、竹の洋杖を突込《つっこ》んだ時、大きな模様を抜いた羽二重《はぶたえ》の裏が敬太郎の眼にちらついた。彼は蛇《へび》の頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位を崩《くず》す恐《おそれ》があるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿を眺《なが》めながら、ひとまず安堵《あんど》の思いをした。女は彼の推察通りはたして後《うしろ》を向かなかった。彼はその間《ま》に女の坐っているすぐ傍《そば》まで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。その時男は顔を上げて、まだ腰もかけず向《むき》も改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいた鉢《はち》に植えた松と梅の盆栽《ぼんさい》が飾りつけてあった。彼の前にはスープの皿があった。彼はその中に大きな匙《さじ》を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間に横《よこた》わる六尺に足らない距離は明らかな電灯が隈《くま》なく照らしていた。卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、潔《いさ》ぎいい光を四方の食卓《テーブル》から反射していた。敬太郎はこういう都合のいい条件の具備した室《へや》で、男の顔を満足するまで見た。そうしてその顔の眉《まゆ》と眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな黒子《ほくろ》を認めた。
 この黒子《ほくろ》を別にして、男の容貌《ようぼう》にこれと云った特異な点はなかった。眼も鼻も口も全く人並であった。けれども離れ離れに見ると凡庸《ぼんよう》な道具が揃《そろ》って、面長《おもなが》な顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。敬太郎と顔を合せた時、スープの中に匙《さじ》を入れたまま、啜《すす》る手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采《ふうさい》態度《たいど》と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に有《も》っていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの宵《よい》の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな性質《たち》の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭《パン》に手も触《ふ》れずにいた。男と女は彼らの傍《そば》に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの間《ま》話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違《たがいちがい》に敬太郎の耳に入《い》った。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。妾《あたし》ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他《ひと》を待たした癖に」
 女は少し拗《す》ねたような物の云い方をした。男は四辺《あたり》に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直《じき》じゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇《ちゅうちょ》している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心《かんじん》な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。

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