2008年11月18日火曜日

二十七

 僕にこの本を貸してくれたものはある文学|好《ずき》の友達であった。僕はかつてこの男と小説の話をして、思慮の勝ったものは、万事に考え込むだけで、いっこう華《はな》やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いてもつまらないだろうと云った。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考え考えしてぐずつくせいだろうとかねがね思っていたから、僕はついこういう質問がかけて見たくなったのである。その時彼は机上にあったこの本を指《さ》して、ここに書いてある主人公は、非常に目覚《めざま》しい思慮と、恐ろしく凄《すさ》まじい思い切った行動を具《そな》えていると告げた。僕はいったいどんな事が書いてあるのかと聞いた。彼はまあ読んで見ろと云って、その本を取って僕に渡した。標題にはゲダンケという独乙字《ドイツじ》が書いてあった。彼は露西亜物《ロシアもの》の翻訳だと教えてくれた。僕は薄い書物を手にしながら、重ねてその梗※[#「(漑-さんずい)/木」、第3水準1-86-3]《こうがい》を彼に尋ねた。彼は梗※[#「(漑-さんずい)/木」、第3水準1-86-3]などはどうでも好いと答えた。そうして中に書いてある事が嫉妬《しっと》なのだか、復讐《ふくしゅう》なのだか、深刻な悪戯《いたずら》なのだか、酔興《すいきょう》な計略なのだか、真面目《まじめ》な所作なのだか、気狂《きちがい》の推理なのだか、常人の打算なのだか、ほとんど分らないが、何しろ華々《はなばな》しい行動と同じく華々しい思慮が伴なっているから、ともかくも読んで見ろと云った。僕は書物を借りて帰った。しかし読む気はしなかった。僕は読み耽《ふけ》らない癖に、小説家というものをいっさい馬鹿にしていた上に、友達のいうような事にはちっとも心を動かすべき興味を有《も》たなかったからである。
 この出来事をすっかり忘れていた僕は、何の気もつかずにそのゲダンケを今|棚《たな》の後《うしろ》から引き出して厚い塵《ちり》を払った。そうして見覚《みおぼえ》のある例の独乙字の標題に眼をつけると共に、かの文学好の友達と彼のその時の言葉とを思い出した。すると突然どこから起ったか分らない好奇心に駆《か》られて、すぐその一|頁《ページ》を開いて初めから読み始めた。中には恐るべき話が書いてあった。
 ある女に意《い》のあったある男が、その婦人から相手にされないのみか、かえってわが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫を殺そうと企てた。ただしただ殺すのではない。女房が見ている前で殺さなければ面白くない。しかもその見ている女房が彼を下手人と知っていながら、いつまでも指を銜《くわ》えて、彼を見ているだけで、それよりほかにどうにも手のつけようのないという複雑な殺し方をしなければ気がすまない。彼はその手段《てだて》として一種の方法を案出した。ある晩餐《ばんさん》の席へ招待された好機を利用して、彼は急に劇《はげ》しい発作《ほっさ》に襲《おそ》われたふりをし始めた。傍《はた》から見るとまるで狂人としか思えない挙動をその場であえてした彼は、同席の一人残らずから、全くの狂人と信じられたのを見すまして、心の内で図に当った策略を祝賀した。彼は人目に触れやすい社交場|裡《り》で、同じ所作《しょさ》をなお二三度くり返した後、発作のために精神に狂《くるい》の出る危険な人という評判を一般に博し得た。彼はこの手数《てかず》のかかった準備の上に、手のつけようのない殺人罪を築き上げるつもりでいたのである。しばしば起る彼の発作が、華《はな》やかな交際の色を暗く損《そこ》ない出してから、今まで懇意に往来《ゆきき》していた誰彼の門戸が、彼に対して急に固く鎖《とざ》されるようになった。けれどもそれは彼の苦にするところではなかった。彼はなお自由に出入《でいり》のできる一軒の家を持っていた。それが取りも直さず彼のまさに死の国に蹴落《けおと》そうとしつつある友とその細君の家だったのである。彼はある日何気ない顔をして友の住居《すまい》を敲《たた》いた。そこで世間話に時を移すと見せて、暗に目の前の人に飛びかかる機を窺《うかが》った。彼は机の上にあった重い文鎮《ぶんちん》を取って、突然これで人が殺せるだろうかと尋ねた。友は固《もと》より彼の問を真《ま》に受けなかった。彼は構わずできるだけの力を文鎮に込めて、細君の見ている前で、最愛の夫を打ち殺した。そうして狂人の名の下《もと》に、瘋癲院《ふうてんいん》に送られた。彼は驚ろくべき思慮と分別と推理の力とをもって、以上の顛末《てんまつ》を基礎に、自分のけっして狂人でない訳をひたすら弁解している。かと思うと、その弁解をまた疑っている。のみならず、その疑いをまた弁解しようとしている。彼は必竟《ひっきょう》正気なのだろうか、狂人なのだろうか、――僕は書物を手にしたまま慄然《りつぜん》として恐れた。

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