2008年11月19日水曜日

 彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後《あと》、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永《すなが》と彼の従妹《いとこ》とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継《つ》ぎ合せつつある一部始終《いちぶしじゅう》を御馳走《ごちそう》に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍《わき》に立った彼の頭には、そんな余裕《よゆう》はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所《ありか》をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固《もと》よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一《ちくいち》顛末《てんまつ》を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間《ま》があった。須永の家《うち》の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子《しょうじ》は立て切ったままついに開《あ》かなかった。もっとも彼は体裁家《ていさいや》で、平生からこういう呼び出し方を田舎者《いなかもの》らしいといって厭《いや》がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎《けいたろう》は正式に玄関の格子口《こうしぐち》へかかった。けれども取次に出た仲働《なかばたらき》の口から「午《ひる》少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪《かぜ》を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
 敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入《はい》った。と思うと襖《ふすま》の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長《おもなが》の下町風に品《ひん》のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
 須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣《えどな》れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一《だいち》どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体《せけんてい》の好い御世辞《おせじ》と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失《な》くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙《からかみ》を締《し》めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉《さくら》を埋《い》けた火鉢《ひばち》を勧めてくれたりするうちに、一時|昂奮《こうふん》した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗《あきたぶき》を一面に大きく摺《す》った襖《ふすま》の模様だの、唐桑《からくわ》らしくてらてらした黄色い手焙《てあぶり》だのを眺《なが》めて、このしとやかで能弁な、人を外《そら》す事を知らないと云った風の母と話をした。
 彼女の語るところによると、須永は今日|矢来《やらい》の叔父の家《うち》へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向《こびなた》へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃|無精《ぶしょう》になったようですね、この間も他《ひと》に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中《じゅう》から風邪を引いて咽喉《のど》を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無《がむ》しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着《むとんじゃく》でございますから……」
 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で伜《せがれ》の話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の後《あと》へ喰付《くっつ》いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。

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