2008年11月19日水曜日

 田口は硯箱《すずりばこ》と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛《なあて》を認《したた》め終ると、「ただ通り一遍の文言《もんごん》だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙《てあぶり》の前に翳《かざ》した手紙を敬太郎《けいたろう》に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価《あたい》する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三《まつもとつねぞう》様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目《まじめ》になって松本恒三様の五字を眺《なが》めたが、肥《ふと》った締《しま》りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙《せつ》らしくできていた。
「そう感心していつまでも眺《なが》めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは私《わたし》の失念だ」
 田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味《まず》くって大きなところは土橋《どばし》の大寿司流《おおずしりゅう》とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「御差支《おさしつかえ》さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜《よろ》しゅうございます」と敬太郎も冗談《じょうだん》半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫《ローマン》―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私《わたし》ゃ学問がないから、今頃|流行《はや》るハイカラな言葉を直《すぐ》忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
 敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道《ひど》く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐《ふところ》に収めて、「では二三日|内《うち》にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔《やわら》かい座蒲団《ざぶとん》の上を滑《すべ》り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
 敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好《かっこう》のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮《メーズ》の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日《きょう》田口での獲物《えもの》は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜《さくそう》した事実を自分のために締《し》め括《くく》っている妙な嚢《ふくろ》のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄|悪《にく》い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美《たんび》の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐《すわ》っている間、彼は始終《しじゅう》何物にか縛《しば》られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下《もと》に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐《なつ》かし味の籠《こも》ったような松本を想像してやまなかった。

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