2008年11月19日水曜日

三十一

「だって余《あん》まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
 敬太郎《けいたろう》の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞《ふさ》がりそうにした。敬太郎の方でも、後《うしろ》から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋《ばつ》が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍《そば》にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺《ガラスつぼ》の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套《がいとう》の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体《からだ》を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯《ひ》に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。妾《あたし》もう少しで帰《かい》るところよ」
「どうも御気の毒さま」
 二人はまた歩き出した。敬太郎も壺入《つぼいり》のビスケットを見棄ててその後《あと》に従がった。二人は淡路町《あわじちょう》まで来てそこから駿河台下《するがだいした》へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門口《かどぐち》から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家《うち》へ入《は》いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝亭《たからてい》と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入《でいり》をする家《うち》であった。近頃|普請《ふしん》をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝《さら》して、斜《はす》かけに立ち切られたような棟《むね》を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒《ビール》の広告写真を仰ぎながら、肉刀《ナイフ》と肉叉《フォーク》を凄《すさ》まじく闘かわした数度《すど》の記憶さえ有《も》っていた。
 二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫《むらさき》がかった空気の匂う迷路《メーズ》の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗《あん》に働らいてこれまで後を跟《つ》けて来た敬太郎には、馬鈴薯《じゃがいも》や牛肉を揚げる油の臭《におい》が、台所からぷんぷん往来へ溢《あふ》れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥《はる》かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚《さと》った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟《しげき》された食慾を充《み》たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後《あと》を追ってそこの二階へ上《のぼ》ろうとしたが、電灯の強く往来へ射《さ》す門口《かどぐち》まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味《まず》い。ひょっとするとこの人は自分を跟《つ》けて来たのだという疑惑を故意《ことさら》先方に与える訳になる。
 敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路《こうじ》を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体《からだ》の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその門《かど》を潜《くぐ》った。時々来た事があるので、彼はこの家《うち》の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上《あが》って右の奥か、左の横にある広間を覗《のぞ》けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室《へや》まで開《あ》けてやろうぐらいの考で、階段《はしごだん》を上りかけると、白服の給仕《ボーイ》が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。

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