2008年11月18日火曜日

十九

 その晩は叔父と従弟《いとこ》を待ち合わした上に、僕ら母子《おやこ》が新たに食卓に加わったので、食事の時間がいつもより、だいぶ後《おく》れたばかりでなく、私《ひそ》かに恐れた通りはなはだしい混雑の中《うち》に箸《はし》と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑いながら、市《いっ》さんまるで火事場のようだろう、しかし会《たま》にはこんな騒ぎをして飯を食うのも面白いものだよと云って、間接の言訳をした。閑静な膳《ぜん》に慣れた母は、この賑《にぎ》やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしていた。母は内気な癖にこういう陽気な席が好きなのである。彼女はその時偶然口に上《のぼ》った一塩《ひとしお》にした小鰺《こあじ》の焼いたのを美味《うま》いと云ってしきりに賞《ほ》めた。
「漁師《りょうし》に頼んどくといくらでも拵《こしら》えて来てくれますよ。何なら、帰りに持っていらっしゃいな。姉さんが好きだから上げたいと思ってたんですが、ついついでが無かったもんだから、それにすぐ腐《わる》くなるんでね」
「わたしもいつか大磯《おおいそ》で誂《あつら》えてわざわざ東京まで持って帰った事があるが、よっぽど気をつけないと途中でね」
「腐るの」千代子が聞いた。
「叔母さん興津鯛《おきつだい》御嫌《おきらい》。あたしこれよか興津鯛の方が美味《おいし》いわ」と百代子が云った。
「興津鯛はまた興津鯛で結構ですよ」と母はおとなしい答をした。
 こんなくだくだしい会話を、僕がなぜ覚えているかと云うと、僕はその時母の顔に表われた、さも満足らしい気持をよく注意して見ていたからであるが、もう一つは僕が母と同じように一塩《ひとしお》の小鰺《こあじ》を好いていたからでもある。
 ついでだからここで云う。僕は自分の嗜好《しこう》や性質の上において、母に大変よく似たところと、全く違ったところと両方|有《も》っている。これはまだ誰にも話さない秘密だが、実は単に自分の心得として、過去幾年かの間、僕は母と自分とどこがどう違って、どこがどう似ているかの詳しい研究を人知れず重ねたのである。なぜそんな真似《まね》をしたかと母に聞かれては云い兼ねる。たとい僕が自分に聞き糺《ただ》して見ても判切《はっきり》云えなかったのだから、理由《わけ》は話せない。しかし結果からいうとこうである。――欠点でも母と共に具《そな》えているなら僕は大変|嬉《うれ》しかった。長所でも母になくって僕だけ有《も》っているとはなはだ不愉快になった。そのうちで僕の最も気になるのは、僕の顔が父にだけ似て、母とはまるで縁のない眼鼻立にでき上っている事であった。僕は今でも鏡を見るたびに、器量が落ちても構わないから、もっと母の人相を多量に受け継《つ》いでおいたら、母の子らしくってさぞ心持が好いだろうと思う。
 食事の後《おく》れた如《ごと》く、寝る時間も順繰《じゅんぐり》に延びてだいぶ遅くなった。その上急に人数《にんず》が増えたので、床の位置やら部屋割をきめるだけが叔母に取っての一骨折《ひとほねおり》であった。男三人はいっしょに固められて、同じ蚊帳《かや》に寝た。叔父は肥《ふと》った身体《からだ》を持ち扱かって、団扇《うちわ》をしきりにばたばた云わした。
「市《いっ》さんどうだい、暑いじゃないか。これじゃ東京の方がよっぽど楽だね」
 僕も僕の隣にいる吾一も東京の方が楽だと云った。それでは何を苦しんでわざわざ鎌倉|下《くだ》りまで出かけて来て、狭い蚊帳へ押し合うように寝るんだか、叔父にも吾一にも僕にも説明のしようがなかった。
「これも一興《いっきょう》だ」
 疑問は叔父の一句でたちまち納《おさま》りがついたが、暑さの方はなかなか去らないので誰もすぐは寝つかれなかった。吾一は若いだけに、明日《あした》の魚捕《さかなとり》の事を叔父に向ってしきりに質問した。叔父はまた真面目《まじめ》だか冗談《じょうだん》だか、船に乗りさえすれば、魚の方で風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》るような旨《うま》い話をして聞かせた。それがただ自分の伜《せがれ》を相手にするばかりでなく、時々はねえ市さんと、そんな事にまるで冷淡の僕まで聴手《ききて》にするのだから少し変であった。しかし僕の方はそれに対して相当な挨拶《あいさつ》をする必要があるので、話の済む前には、僕は当然同行者の一人《いちにん》として受答《うけこたえ》をするようになっていた。僕は固《もと》より行くつもりでも何でもなかったのだから、この変化は僕に取って少し意外の感があった。気楽そうに見える叔父はそのうち大きな鼾声《いびき》をかき始めた。吾一もすやすや寝入《ねい》った。ただ僕だけは開《あ》いている眼をわざと閉じて、更《ふ》けるまでいろいろな事を考えた。

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