2008年11月19日水曜日

二十九

 その時|敬太郎《けいたろう》の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪《ひさしがみ》に結《い》っているので、その辺の区別は始めから不分明《ふぶんみょう》だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半《なかば》後《うしろ》になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲《おそ》って来た。
 見かけからいうとあるいは人に嫁《とつ》いだ経験がありそうにも思われる。しかし身体《からだ》の発育が尋常より遥《はる》かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服装《つくり》をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄《しまがら》について、何をいう権利も有《も》たない男だが、若い女ならこの陰鬱《いんうつ》な師走《しわす》の空気を跳《は》ね返すように、派出《はで》な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠《ばっ》とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性《しげきせい》の文《あや》をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹《ひ》くのは頸《くび》の周囲《まわり》を包む羽二重《はぶたえ》の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
 敬太郎は年に合わして余りに媚《こ》びる気分を失い過ぎたこの衣服《なり》を再び後《うしろ》から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大人《おとな》びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚《みな》し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初々《ういうい》しい羞恥《はにかみ》が、手帛《ハンケチ》に振りかけた香水の香《か》のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体《からだ》全体の運動となったり、眉《まゆ》や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻《さっき》目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾《と》くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強《し》いて動かすまいと力《つと》める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴《とも》なったものだと彼は勘定《かんてい》していた。
 ところが今|後《うしろ》から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨《うま》く調子が取れているように思われた。彼女《かのおんな》は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌《しの》ぎかねる風情《ふぜい》もなく、ほとんど閑雅《かんが》とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端《はじ》に立っていた。傍《そば》には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍《そば》へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退《の》いたので大いに安心したらしい彼女は、その中《うち》で最も熱心に何かを待ち受ける一人《いちにん》となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上《かみ》へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を楯《たて》に、巡査の立っている横から女の顔を覘《ねら》うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後姿《うしろすがた》を眺《なが》めて物陰にいた時は、彼女を包む一色《ひといろ》の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪《ひさしがみ》とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄《もて》あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々《いきいき》した一種|華《はな》やかな気色《きしょく》に充《み》ちて、それよりほかの表情は毫《ごう》も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
 やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩《ゆる》く廻転して来た。それが女のいる前で滑《すべ》るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提《さ》げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直《すぐ》に女の前に行って、そこに立ちどまった。

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