2008年11月19日水曜日

十二

「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口|要作《ようさく》ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
 こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎《けいたろう》は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張《みはり》に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末《てんまつ》を包まず打ち明けた。固《もと》よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論|布衍《ふえん》の煩《わずら》わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮《さえ》ぎらなかった。話が済んでからも、直《すぐ》とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫《あや》まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利《き》き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
 こういった主人の顔を見ると、呆《あき》れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚《ぐ》な事を引き受けたのです」
 物数奇《ものずき》から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後《あと》を跟《つ》けるなんて」
「私も少し懲《こ》りました。これからはもうやらないつもりです」
 この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑《にがわら》いをしていた。それが敬太郎には軽蔑《けいべつ》の意味にも憐愍《れんみん》の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
 根本義に溯《さかの》ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴《つ》れていた若い女は高等淫売《こうとういんばい》だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚《はば》かるほどの男ではなかった。けれども松本が強《し》いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜《ひそ》んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶《あいさつ》に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。

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