2008年11月19日水曜日

彼岸過迄に就て

 事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の身体《からだ》をぶっ通《とお》しに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを好《い》い機会《しお》に、なお二箇月の暇を貪《むさぼ》ることにとりきめて貰ったのが原《もと》で、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を執《と》らず、十一十二もつい紙上へは杳《よう》たる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、崩《くず》れた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
 歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口《いとぐち》を開くように事がきまった時は、長い間|抑《おさ》えられたものが伸びる時の楽《たのしみ》よりは、背中に背負《しょわ》された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉《うれ》しかった。けれども長い間|抛《ほう》り出しておいたこの義務を、どうしたら例《いつも》よりも手際《てぎわ》よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
 久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充《み》ちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬《むく》いなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして旨《うま》いものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは作物《さくぶつ》のできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら佳《い》いものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合《うめあわ》せをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜《ひそ》んでいるのである。
 この作を公《おおやけ》にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派《ローマンは》の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜《ひょうぼう》して路傍《ろぼう》の人の注意を惹《ひ》くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
 自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴《ふいちょう》する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
 自分はすべて文壇に濫用《らんよう》される空疎な流行語を藉《か》りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気《げんき》があって自分以上を装《よそお》うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎《もたら》すのを恐れるだけである。
 東京大阪を通じて計算すると、吾《わが》朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物《さくぶつ》を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路《ろじ》も覗《のぞ》いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率《しんそつ》に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公《おおやけ》にし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄《ひがんすぎまで》」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空《むな》しい標題《みだし》である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持《じ》していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日《こんにち》まで過ぎたのであるから、もし自分の手際《てぎわ》が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企《くわだ》てが意外の障害を受けて予期のごとくに纏《まと》まらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨《うま》く行かなくっても、離れるともつくとも片《かた》のつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支《さしつか》えなかろうと思っている。
[#地から2字上げ](明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)

風呂の後 一

 敬太郎《けいたろう》はそれほど験《げん》の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気《いやき》が注《さ》して来た。元々|頑丈《がんじょう》にできた身体《からだ》だから単に馳《か》け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸《かか》ったなり居据《いすわ》って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端《とたん》にすぽりと外《はず》れたりする反間《へま》が度重《たびかさ》なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。で、今夜は少し癪《しゃく》も手伝って、飲みたくもない麦酒《ビール》をわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁《かいかつ》な気分を自分と誘《いざな》って見た。けれどもいつまで経《た》っても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退《の》かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云ったが、その後《あと》からまた「本当にまあ」とつけ足した。敬太郎は自分の顔を撫《な》でながら、「赤いだろう。こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないから、もう寝るんだ。ついでに床を取ってくれ」と云って、下女がまだ何かやり返そうとするのをわざと外《はず》して廊下へ出た。そうして便所から帰って夜具の中に潜《もぐ》り込む時、まあ当分休養する事にするんだと口の内で呟《つぶや》いた。
 敬太郎は夜中に二|返《へん》眼を覚《さ》ました。一度は咽喉《のど》が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が開《あ》いた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気がつくや否《いな》や敬太郎は、休養休養と云ってまた眼を眠《ねむ》ってしまった。その次には気の利《き》かないボンボン時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。それから後《あと》はいくら苦心しても寝つかれなかった。やむを得ず横になったまま巻煙草《まきたばこ》を一本吸っていると、半分ほどに燃えて来た敷島《しきしま》の先が崩れて、白い枕が灰だらけになった。それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い日脚《ひあし》に打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやく我《が》を折って起き上ったなり、楊枝《ようじ》を銜《くわ》えたまま、手拭《てぬぐい》をぶら下げて湯に行った。
 湯屋の時計はもう十時少し廻っていたが、流しの方はからりと片づいて、小桶《こおけ》一つ出ていない。ただ浴槽《ゆぶね》の中に一人横向になって、硝子越《ガラスごし》に射し込んでくる日光を眺《なが》めながら、呑気《のんき》そうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる森本《もりもと》という男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。すると、向うでも、やあ御早うと挨拶《あいさつ》をしたが、
「何です今頃|楊枝《ようじ》なぞを銜《くわ》え込んで、冗談《じょうだん》じゃない。そう云やあ昨夕《ゆうべ》あなたの部屋に電気が点《つ》いていないようでしたね」と云った。
「電気は宵《よい》の口から煌々《こうこう》と点いていたさ。僕はあなたと違って品行方正だから、夜遊びなんか滅多《めった》にした事はありませんよ」
「全くだ。あなたは堅いからね。羨《うらや》ましいくらい堅いんだから」
 敬太郎は少し羞痒《くすぐっ》たいような気がした。相手を見ると依然として横隔膜《おうかくまく》から下を湯に浸《つ》けたまま、まだ飽《あ》きずにじゃぶじゃぶやっている。そうして比較的|真面目《まじめ》な顔をしている。敬太郎はこの気楽そうな男の口髭《くちひげ》がだらしなく濡《ぬ》れて一本一本|下向《したむき》に垂れたところを眺めながら、
「僕の事はどうでも好いが、あなたはどうしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は倦怠《だる》そうに浴槽の側《ふち》に両肱《りょうひじ》を置いてその上に額を載《の》せながら俯伏《うっぷし》になったまま、
「役所は御休みです」と頭痛でもする人のように答えた。
「何で」
「何ででもないが、僕の方で御休みです」
 敬太郎は思わず自分の同類を一人発見したような気がした。それでつい、「やっぱり休養ですか」と云うと、相手も「ええ休養です」と答えたなり元のとおり湯槽《ゆぶね》の側に突伏《つっぷ》していた。

 敬太郎《けいたろう》が留桶《とめおけ》の前へ腰をおろして、三助《さんすけ》に垢擦《あかすり》を掛けさせている時分になって、森本はやっと煙《けむ》の出るような赤い身体《からだ》を全く湯の中から露出した。そうして、ああ好い心持だという顔つきで、流しの上へぺたりと胡坐《あぐら》をかいたと思うと、
「あなたは好い体格だね」と云って敬太郎の肉付《にくづき》を賞《ほ》め出した。
「これで近頃はだいぶ悪くなった方です」
「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
 森本は自分で自分の腹をポンポン叩《たた》いて見せた。その腹は凹《へこ》んで背中の方へ引《ひっ》つけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体は毀《こわ》す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕も閑《ひま》だから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、活溌《かっぱつ》なのはただ返事だけで、挙動の方は緩慢《かんまん》というよりも、すべての筋肉が湯に※[#「火+蝶のつくり」、第3水準1-87-56]《う》でられた結果、当分|作用《はたらき》を中止している姿であった。
 敬太郎が石鹸《シャボン》を塗《つ》けた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股を擦《こす》ったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う気色《けしき》は見えなかった。最後に瘠《や》せた一塊《ひとかたまり》の肉団をどぶりと湯の中に抛《ほう》り込むように浸《つ》けて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると綺麗《きれい》で好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に這入《はい》るんだからことにそうだろう。実用のための入湯《にゅうとう》でなくって、快感を貪《むさ》ぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫《おっくう》でね。ついぼんやり浸《つか》ってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉《まめ》だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負《おまけ》に楊枝《ようじ》まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
 二人は連立って湯屋の門口《かどぐち》を出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。昨夕《ゆうべ》の雨が土を潤《ふや》かし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上《けあ》げたりした泥の痕《あと》を、二人は厭《いと》うような軽蔑《けいべつ》するような様子で歩いた。日は高く上《のぼ》っているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだに微《かす》かな波動を地平線の上に描《えが》いているらしい感じがした。
「今朝の景色《けしき》は寝坊《ねぼう》のあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってる癖《くせ》に靄《もや》がいっぱいなんでしょう。電車をこっちから透《す》かして見ると、乗客がまるで障子《しょうじ》に映る影画《かげえ》のように、はっきり一人《ひとり》一人見分けられるんです。それでいて御天道様《おてんとさま》が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入《はい》って巻紙と状袋で膨《ふく》らました懐《ふところ》をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴《スリッパー》の踵《かかと》を鳴らして階段《はしごだん》を二つ上《のぼ》り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本を誘《いざな》った。森本は、
「もう直《じき》午飯《ひる》でしょう」と云ったが、躊躇《ちゅうちょ》すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作《むぞうさ》な態度で、敬太郎の後に跟《つ》いて来た。そうして、
「あなたの室《へや》から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付《てすりつき》の縁板の上へ濡手拭《ぬれてぬぐい》を置いた。

 敬太郎《けいたろう》はこの瘠《や》せながら大した病気にも罹《かか》らないで、毎日新橋の停車場《ステーション》へ行く男について、平生から一種の好奇心を有《も》っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿|住居《ずまい》をして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した試《ためし》もないので、敬太郎には一切がX《エックス》である。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑に取《と》り紛《まぎ》れて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの余裕《よゆう》も出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会も起らなかった。ただ長い間同じ下宿に立籠《たてこも》っているという縁故だか同情だかが本《もと》で、いつの間にか挨拶《あいさつ》をしたり世間話をする仲になったまでである。
 だから敬太郎の森本に対する好奇心というのは、現在の彼にあると云うよりも、むしろ過去の彼にあると云った方が適当かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎《れっき》とした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼《がき》が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。山神《さんじん》の祟《たたり》には実際恐れを作《な》していたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。その時しかも山神が分らなくって、何だと聞き返したら、山の神の漢語じゃありませんかと教えられたおかしさまでまだ記憶に残っている。それらを思い出しても、敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスの臭《におい》が、箒星《ほうきぼし》の尻尾《しっぽ》のようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。
 女についてできたとか切れたとかいう逸話以外に、彼はまたさまざまな冒険譚《ぼうけんだん》の主人公であった。まだ海豹島《かいひょうとう》へ行って膃肭臍《おっとせい》は打っていないようであるが、北海道のどこかで鮭《さけ》を漁《と》って儲《もう》けた事はたしかであるらしい。それから四国辺のある山から安質莫尼《アンチモニー》が出ると触れて歩いて、けっして出なかった事も、当人がそう自白するくらいだから事実に違ない。しかし最も奇抜なのは呑口会社《のみぐちがいしゃ》の計画で、これは酒樽《さかだる》の呑口を作る職人が東京にごく少ないというところから思いついたのだそうだが、せっかく大阪から呼び寄せた職人と衝突したために成立しなかったと云って彼はいまだに残念がっている。
 儲口《もうけぐち》を離れた普通の浮世話になると、彼はまた非常に豊富な材料の所有者であるという事を容易に証拠立てる。筑摩川《ちくまがわ》の上流の何とかいう所から河を隔てて向うの山を見ると、巌《いわ》の上に熊がごろごろ昼寝をしているなどはまだ尋常の方なので、それが一層色づいて来ると、信州|戸隠山《とがくしやま》の奥の院というのは普通の人の登れっこない難所だのに、それを盲目《めくら》が天辺《てっぺん》まで登ったから驚ろいたなどという。そこへ御参《おまいり》をするには、どんなに脚《あし》の達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで焚火《たきび》をして夜の寒さを凌《しの》いでいると、下から鈴《れい》の響が聞えて来たから、不思議に思っているうちに、その鈴の音《ね》がだんだん近くなって、しまいに座頭《ざとう》が上《のぼ》って来たんだと云う。しかもその座頭が森本に今晩はと挨拶《あいさつ》をしてまたすたすた上って行ったと云うんだから、余り妙だと思ってなおよく聞いて見ると、実は案内者が一人ついていたのだそうである。その案内者の腰に鈴を着けて、後《あと》から来る盲者《めくら》がその鈴の音を頼りに上る事ができるようにしてあったのだと説明されて、やや納得《なっとく》もできたが、それにしても敬太郎には随分意外な話である。が、それがもう少し高《こう》じると、ほとんど妖怪談《ようかいだん》に近い妙なものとなって、だらしのない彼の口髭《くちひげ》の下から最も慇懃《いんぎん》に発表される。彼が耶馬渓《やばけい》を通ったついでに、羅漢寺《らかんじ》へ上って、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女と擦《す》れ違った。その女は臙脂《べに》を塗って白粉《おしろい》をつけて、婚礼に行く時の髪を結《ゆ》って、裾模様《すそもよう》の振袖《ふりそで》に厚い帯を締《し》めて、草履穿《ぞうりばき》のままたった一人すたすた羅漢寺《らかんじ》の方へ上《のぼ》って行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもう締《し》まっているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑を洩《も》らすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の弁口《べんこう》を迎えるのが例であった。

 この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに風呂《ふろ》から帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門を潜《くぐ》って来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの敬太郎《けいたろう》に取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
 その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌《い》む浪漫趣味《ロマンチック》の青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松《こだまおとまつ》とかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年《ていねん》未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。その中《うち》でも音松君が洞穴の中から躍《おど》り出す大蛸《おおだこ》と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて短銃《ピストル》をポンポン打つんだが、つるつる滑《すべ》って少しも手応《てごたえ》がないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た小蛸《こだこ》がぐるりと環《わ》を作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯《からかい》半分に、君のような剽軽《ひょうきん》ものはとうてい文官試験などを受けて地道《じみち》に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな蛸狩《たこがり》でもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川《たがわ》の蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ流行《はや》り出した。この間卒業して以来足を擂木《すりこぎ》のようにして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼らはどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていたくらいである。
 南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと奇抜《きばつ》過ぎるので、真面目《まじめ》に思い立つ勇気も出なかったが、新嘉坡《シンガポール》の護謨林《ゴムりん》栽培などは学生のうちすでに目論《もくろ》んで見た事がある。当時敬太郎は、果《はて》しのない広野《ひろの》を埋《う》め尽す勢《いきおい》で何百万本という護謨の樹が茂っている真中に、一階建のバンガローを拵《こしら》えて、その中に栽培監督者としての自分が朝夕《あさゆう》起臥《きが》する様を想像してやまなかった。彼はバンガローの床《ゆか》をわざと裸にして、その上に大きな虎の皮を敷くつもりであった。壁には水牛の角を塗り込んで、それに鉄砲をかけ、なおその下に錦の袋に入れたままの日本刀を置くはずにした。そうして自分は真白なターバンをぐるぐる頭へ巻きつけて、広いヴェランダに据《す》えつけてある籐椅子《といす》の上に寝そべりながら、強い香《かおり》のハヴァナをぷかりぷかりと鷹揚《おうよう》に吹かす気でいた。それのみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――天鵞絨《びろうど》のような毛並と黄金《こがね》そのままの眼と、それから身の丈《たけ》よりもよほど長い尻尾《しっぽ》を持った怪しい猫が、背中を山のごとく高くして蹲踞《うずく》まっている訳になっていた。彼はあらゆる想像の光景をかく自分に満足の行くようにあらかじめ整えた後で、いよいよ実際の算盤《そろばん》に取りかかったのである。ところが案外なもので、まず護謨《ゴム》を植えるための地面を借り受けるのにだいぶんな手数《てすう》と暇が要《い》る。それから借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植えつけに費やすべき金高《かなだか》が以外に多い。その上絶えず人夫を使って草取をした上で、六年間|苗木《なえぎ》の生長するのを馬鹿見たようにじっと指を銜《くわ》えて見ていなければならない段になって、敬太郎はすでに充分退却に価すると思い出したところへ、彼にいろいろの事情を教えてくれた護謨|通《つう》は、今しばらくすると、あの辺でできる護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと威嚇《いかく》したので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。

 けれども彼の異常に対する嗜欲《しよく》はなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に上《のぼ》して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に奇《き》なあるものを、マントの裏かコートの袖《そで》に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを引《ひ》っくり返してその奇なところをただ一目《ひとめ》で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
 敬太郎《けいたろう》のこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語《しんアラビヤものがたり》という書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼は大《だい》の英語嫌《えいごぎらい》であったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付けたのでも、彼がいかにそれを面白がっていたかが分る。ある時彼は興奮の余り小説と事実の区別を忘れて、十九世紀の倫敦《ロンドン》に実際こんな事があったんでしょうかと真面目《まじめ》な顔をして教師に質問を掛けた。その教師はついこの間英国から帰ったばかりの男であったが、黒いメルトンのモーニングの尻から麻の手帛《ハンケチ》を出して鼻の下を拭《ぬぐ》いながら、十九世紀どころか今でもあるでしょう。倫敦という所は実際不思議な都ですと答えた。敬太郎の眼はその時驚嘆の光を放った。すると教師は椅子《いす》を離れてこんな事を云った。
「もっとも書き手が書き手だから観察も奇抜だし、事件の解釈も自《おのず》から普通の人間とは違うんで、こんなものができ上ったのかも知れません。実際スチーヴンソンという人は辻待《つじまち》の馬車を見てさえ、そこに一種のロマンスを見出すという人ですから」
 辻馬車とロマンスに至って敬太郎は少し分らなくなったが、思い切ってその説明を聞いて見て、始めてなるほどと悟った。それから以後は、この平凡|極《きわ》まる東京のどこにでもごろごろして、最も平凡を極めている辻待の人力車を見るたんびに、この車だって昨夕《ゆうべ》人殺しをするための客を出刃《でば》ぐるみ乗せていっさんに馳《か》けたのかも知れないと考えたり、または追手《おって》の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を幌《ほろ》の中に隠して、どこかの停車場《ステーション》へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で怖《こわ》がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
 そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会《であ》って然《しか》るべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔に飽《あ》き果てた。毎日食う下宿の菜《さい》にも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方が纏《まと》まるとかすれば、まだ衣食の途《みち》以外に、幾分かの刺戟《しげき》が得られるのだけれども、両方共二三日前に当分|望《のぞみ》がないと判然して見ると、ますます眼前の平凡が自分の無能力と密切な関係でもあるかのように思われて、ひどくぼんやりしてしまった。それで糊口《ここう》のための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばら銭《せん》を探《さが》して歩くような長閑《のどか》な気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって、昨夕はさほど好きでもない麦酒《ビール》を大いに飲んで寝たのである。
 こんな時に、非凡の経験に富んだ平凡人とでも評しなければ評しようのない森本の顔を見るのは、敬太郎にとってすでに一種の興奮であった。巻紙を買う御供《おとも》までして彼を自分の室《へや》へ連れ込んだのはこれがためである。

 森本は窓際《まどぎわ》へ坐ってしばらく下の方を眺《なが》めていた。
「あなたの室《へや》から見た景色《けしき》は相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空の裾《すそ》に、色づいた樹が、所々|暖《あっ》たかく塊《かた》まっている間から赤い煉瓦《れんが》が見える様子は、たしかに画《え》になりそうですね」
「そうですね」
 敬太郎《けいたろう》はやむを得ずこういう答をした。すると森本は自分が肱《ひじ》を乗せている窓から一尺ばかり出張った縁板を見て、
「ここはどうしても盆栽《ぼんさい》の一つや二つ載《の》せておかないと納まらない所ですよ」と云った。
 敬太郎はなるほどそんなものかと思ったけれども、もう「そうですね」を繰り返す勇気も出なかったので、
「あなたは画や盆栽まで解るんですか」と聞いた。
「解るんですかは少し恐れ入りましたね。全く柄《がら》にないんだから、そう聞かれても仕方はないが、――しかし田川さんの前だが、こう見えて盆栽も弄《いじ》くるし、金魚も飼うし、一時は画も好きでよく描《か》いたもんですよ」
「何でもやるんですね」
「何でも屋に碌《ろく》なものなしで、とうとうこんなもんになっちゃった」
 森本はそう云い切って、自分の過去を悔ゆるでもなし、またその現在を悲観するでもなし、ほとんど鋭どい表情のどこにも出ていない不断の顔をして敬太郎を見た。
「しかし僕はあなた見たように変化の多い経験を、少しでも好いから甞《な》めて見たいといつでもそう思っているんです」と敬太郎が真面目《まじめ》に云いかけると、森本はあたかも酔っ払のように、右の手を自分の顔の前へ出して、大袈裟《おおげさ》に右左に振って見せた。
「それがごく悪い。若い内――と云ったところで、あなたと僕はそう年も違っていないようだが、――とにかく若い内は何でも変った事がしてみたいもんでね。ところがその変った事を仕尽した上で、考えて見ると、何だ馬鹿らしい、こんな事ならしない方がよっぽど増しだと思うだけでさあ。あなたなんざ、これからの身体《からだ》だ。おとなしくさえしていりゃどんな発展でもできようってもんだから、肝心《かんじん》なところで山気《やまぎ》だの謀叛気《むほんぎ》だのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。――時にどうです、この間から伺がおう伺がおうと思って、つい忙がしくって、伺がわずにいたんだが、何か好い口は見付《めっ》かりましたか」
 正直な敬太郎は憮然《ぶぜん》としてありのままを答えた。そうして、とうてい当分これという期待《あて》もないから、奔走をやめて少し休養するつもりであるとつけ加えた。森本はちょっと驚ろいたような顔をした。
「へえー、近頃は大学を卒業しても、ちょっくらちょいと口が見付からないもんですかねえ。よっぽど不景気なんだね。もっとも明治も四十何年というんだから、そのはずには違ないが」
 森本はここまで来て少し首を傾《かし》げて、自分の哲理を自分で噛《か》みしめるような素振《そぶり》をした。敬太郎は相手の様子を見て、それほど滑稽《こっけい》とも思わなかったが、心の内で、この男は心得があってわざとこんな言葉遣《ことばづかい》をするのだろうか、または無学の結果こうよりほか言い現わす手段《てだて》を知らないのだろうかと考えた。すると森本が傾《かし》げた首を急に竪《たて》に直した。
「どうです、御厭《おいや》でなきゃ、鉄道の方へでも御出《おで》なすっちゃ。何なら話して見ましょうか」
 いかな浪漫的《ロマンチック》な敬太郎もこの男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかった。けれどもさも軽々と云って退《の》ける彼の愛嬌《あいきょう》を、翻弄《ほんろう》と解釈するほどの僻《ひがみ》ももたなかった。拠処《よんどころ》なく苦笑しながら、下女を呼んで、
「森本さんの御膳《おぜん》もここへ持って来るんだ」と云いつけて、酒を命じた。

 森本は近頃|身体《からだ》のために酒を慎しんでいると断わりながら、注《つ》いでやりさえすれば、すぐ猪口《ちょく》を空《から》にした。しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静が熱《ほて》ってくる、気楽はしだいしだいに膨脹《ぼうちょう》するように見えた。自分でも「こうなりゃ併呑自若《へいどんじじゃく》たるもんだ。明日《あした》免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、盃《さかずき》に唇《くちびる》を付けて、付合《つきあ》っているのを見て、彼は、
「田川さん、あなた本当に飲《い》けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない癖《くせ》に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去を碌《ろく》でなしのように蹴《け》なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、後光《ごこう》が逆《ぎゃく》に射すとでも評すべき態度で、気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》を吐《は》き始めた。そうしてそれが大抵は失敗の気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]であった。しかも敬太郎を前に置いて、
「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士で候《そうろう》のって、肩書ばかり振り廻したって、僕は慴《おび》えないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。そうかと思うと噫《げっぷ》のような溜息《ためいき》を洩《も》らして自分の無学をさも情《なさけ》なさそうに恨《うら》んだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿|同然《どうぜん》渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱《げだつ》ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」
 敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]だの愚痴《ぐち》だのが多くって、例のように純粋の興味が湧《わ》かないのを残念に思った。好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。それで新らしく入れた茶を勧《すす》めながら、
「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。やがて深い湯呑《ゆのみ》を干してしまうとこう云った。
「そうですね。やった後《あと》で考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、女気《おんなっけ》のある方を指すんですか」
「そう云う訳でもないんですが、あったって差支《さしつかえ》ありません」
「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし雑談《じょうだん》抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気《のんき》な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚《おぼえ》があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
 敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の気《け》がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心を抱《いだ》いて、彼の帰るのを待ち受けた。

 ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬太郎《けいたろう》はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階段《はしごだん》を上《あが》って、彼の部屋の前まで来ると、障子《しょうじ》を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに転《ころ》がっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり室《へや》に這入《はい》り込むや否や、森本の首筋を攫《つか》んで強く揺振《ゆすぶ》った。森本は不意に蜂《はち》にでも螫《さ》されたように、あっと云って半《なか》ば跳《は》ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢現《ゆめうつつ》のたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといって他《ひと》を愚弄《ぐろう》する体《てい》もないので、敬太郎もつい怒《おこ》れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一頓挫《いちとんざ》を来《きた》したも同然なので、一人自分の室《へや》に引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、また後《あと》から敬太郎について来た。そうして先刻《さっき》まで自分の坐《すわ》っていた座蒲団《ざぶとん》の上に、きちんと膝《ひざ》を折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
 森本の呑気生活というのは、今から十五六年|前《ぜん》彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。固《もと》より人間のいない所に天幕《テント》を張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕を担《かつ》いで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っ気《け》のありようはずはなかった。
「何しろ高さ二丈もある熊笹《くまざさ》を切り開いて途《みち》をつけるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、蝮蛇《まむし》がとぐろを巻いて日光を鱗《うろこ》の上に受けている。それを遠くから棒で抑《おさ》えておいて、傍《そば》へ寄って打《ぶ》ち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも魚肉《さかな》と獣肉《にく》の間ぐらいだろうと答えた。
 天幕《テント》の中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた身体《からだ》を埋《うず》めぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て焚火《たきび》をして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので蚊帳《かや》は始終《しじゅう》釣っていた。ある時その蚊帳を担《かつ》いで谷川へ下りて、何とかいう川魚を掬《すく》って帰ったら、その晩から蚊帳が急に腥《なまぐ》さくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
 彼はまた山であらゆる茸《たけ》を採《と》って食ったそうである。ます茸《だけ》というのは広葢《ひろぶた》ほどの大きさで、切って味噌汁《みそしる》の中へ入れて煮るとまるで蒲鉾《かまぼこ》のようだとか、月見茸《つきみだけ》というのは一抱《ひとかかえ》もあるけれども、これは残念だが食えないとか、鼠茸《ねずみだけ》というのは三つ葉の根のようで可愛《かわい》らしいとか、なかなか精《くわ》しい説明をした。大きな笠《かさ》の中へ、野葡萄《のぶどう》をいっぱい採って来て、そればかり貪《むさ》ぼっていたものだから、しまいに舌《した》が荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
 食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという悲酸《ひさん》な物語もあった。それはみんなの糧《かて》が尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、沢辺《さわべ》まで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、俄雨《にわかあめ》で谷が急にいっぱいになったが最後、米など背負《しょ》って帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと仰向《あおむけ》に寝て、ただ空を眺《なが》めていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
「そう長い間飲まず食わずじゃ、両便《りょうべん》とも留《と》まるでしょう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、やっぱりありますよ」と森本はすこぶる気楽そうに答えた。

 敬太郎《けいたろう》は微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次|茫々《ぼうぼう》たる芒原《すすきはら》の中で、突然|面《おもて》も向けられないほどの風に出会った時、彼らは四《よ》つ這《ばい》になって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、一抱《ひとかかえ》も二抱《ふたかかえ》もある大木の枝も幹も凄《すさ》まじい音を立てて、一度に風から痛振《いたぶ》られるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
「それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏していました」という答であったが、いくら非道《ひど》い風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどの勢《いきおい》があろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで他事《ひとごと》のように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に真面目《まじめ》になって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
「おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、不中用《やくざ》にゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く嘘《うそ》のような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御出《おいで》なさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の敵討《かたきうち》じゃなしね、そう真剣に自分の位地《いち》を棄《す》てて漂浪《ひょうろう》するほどの物数奇《ものずき》も今の世にはありませんからね。第一|傍《はた》がそうさせないから大丈夫です」
 敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど常調《じょうちょう》以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえ抑《おさ》えたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
「だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭々《あきあき》してしまった」と投げ出すように云った。すると森本は比較的|厳粛《げんしゅく》な顔をして、
「あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです」と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの御籤《おみくじ》めいた言葉がさほどの意義を齎《もたら》さなかった。二人は少しの間|煙草《たばこ》を吹かして黙っていた。
「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もう厭《いや》になったから近々《きんきん》罷《や》めようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
 敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、他《ひと》の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を易《か》えて、世間話を快活に十分ほどした後《あと》で、「いやどうも御馳走《ごちそう》でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
 それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を有《も》たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど稀《まれ》であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒襟《くろえり》の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟開《えりあき》の広い新調の背広《せびろ》を着て、妙な洋杖《ステッキ》を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘入《かさいれ》に入れてあると、ははあ先生今日は宅《うち》にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の門《かど》を出入《でいり》した。するとその洋杖《ステッキ》がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。

 一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎《けいたろう》はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。固《もと》より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を相《そう》して、何でも停車場《ステーション》の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌日《あした》は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
 しまいに宿の神《かみ》さんが来て、森本さんから何か御音信《おたより》がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を梟《ふくろ》のような丸い眼の中《うち》に漂《ただ》よわせて出て行った。それから一週間ほど経《た》っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を抱《いだ》き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出花《でばな》なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の計《はかりごと》のために、好奇家の権利を放棄したのである。
 すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障子《しょうじ》を開けて這入《はい》って来た。彼は腰から古めかしい煙草入《たばこいれ》を取り出して、その筒《つつ》を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙管《きせる》に刻草《きざみ》を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から迸《ほとば》しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判然《はっきり》向うからそうと切り出されるまで覚《さと》らずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」と藪《やぶ》から棒につけ加えた。
 敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶《あいさつ》も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を覗《のぞ》き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火箸《ひばし》で雁首《がんくび》を掘っていた。それが済んでから羅宇《らう》の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
 主人の云うところによると、森本は下宿代が此家《ここ》に六カ月ばかり滞《とどこお》っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年《ことし》の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家《うち》のものは固《もと》より出張とばかり信じていたが、その日限《にちげん》が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信《たより》も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室《へや》を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷《や》められていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御出《おいで》か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
 敬太郎はこの失踪者《しっそうしゃ》の友人として、彼の香《かん》ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆賞《たんしょう》を懐《ふところ》にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見做《みな》されては、未来を有《も》つ青年として大いなる不面目だと感じた。

十一

 正直な彼は主人の疳違《かんちがい》を腹の中で怒《おこ》った。けれども怒る前にまず冷たい青大将《あおだいしょう》でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙草入《たばこいれ》から刻《きざ》みを撮《つま》み出しては雁首《がんくび》へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬太郎《けいたろう》に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙管《きせる》を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく眺《なが》めていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を退治《たいじ》てやりたいような気がし出した。
「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の徒《と》といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや後暗《うしろぐら》い関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても執濃《しつこ》く疑っているのは怪《け》しからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも料簡《りょうけん》がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも宿料《しゅくりょう》を滞《とどこ》おらした事があるかい」
 主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭|抱《いだ》いていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えて貰《もら》いたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気に障《さわ》ったら、いくらでも詫《あや》まるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の煙草入《たばこいれ》を早く腰に差させようと思って、単に宜《よろ》しいと答えた。主人はようやく談判の道具を角帯《かくおび》の後へしまい込んだ。室《へや》を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気色《けしき》も見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
 それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が這入《はい》った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱《いだ》いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部《うわべ》は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥《あせ》らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩《か》り歩《あ》るいていた。
 或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食《く》ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈《きはちじょう》の袢天《はんてん》で赤ん坊を負《おぶ》った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛《まゆげ》の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋《いき》な部類に属する型だったが、どうしても袢天|負《おんぶ》をするという柄《がら》ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂《まえだれ》の下から格子縞《こうしじま》か何かの御召《おめし》が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面《そと》は雨なので、五六人の乗客は皆|傘《かさ》をつぼめて杖《つえ》にしていた。女のは黒蛇目《くろじゃのめ》であったが、冷たいものを手に持つのが厭《いや》だと見えて、彼女はそれを自分の側《わき》に立て掛けておいた。その畳んだ蛇《じゃ》の目《め》の先に赤い漆《うるし》で加留多《かるた》と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 この黒人《くろうと》だか素人《しろうと》だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉《まゆ》を心持八の字に寄せて俯目勝《ふしめがち》な白い顔と、御召《おめし》の着物と、黒蛇の目に鮮《あざや》かな加留多という文字とが互違《たがいちがい》に敬太郎の神経を刺戟《しげき》した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質《かおだち》は悪い方じゃありませんでした。眉毛《まみえ》の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶《おも》い起しながら、加留多と書いた傘の所有主《もちぬし》を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。

十二

 好奇心に駆《か》られた敬太郎《けいたろう》は破るようにこの無名氏の書信を披《ひら》いて見た。すると西洋罫紙《せいようけいし》の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力《つと》めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣《らいじゅう》とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞《とどこ》おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室《へや》に置いてある荷物を始末したら――行李《こり》の中には衣類その他がすっかり這入《はい》っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者《くせもの》故《ゆえ》僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便《おんびん》に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣|輩《はい》が食物《くいもの》にしたがるものですから、その辺《へん》はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善《よ》くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾《いかん》の至《いたり》だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由《よし》を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽《たのしみ》にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後《あと》へ自分が旅行した満洲《まんしゅう》地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴《ふいちょう》していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春《ちょうしゅん》とかにある博打場《ばくちば》の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼《ちまなこ》になりながら、一種の臭気《しゅうき》を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰《なぐさ》み半分わざと垢《あか》だらけな着物を着て、こっそりここへ出入《しゅつにゅう》するというんだから、森本だってどんな真似《まね》をしたか分らないと敬太郎は考えた。
 手紙の末段には盆栽《ぼんさい》の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂《どうざか》の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載《の》せておいて朝夕《あさゆう》眺《なが》めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上《けんじょう》するからあなたの室《へや》へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣《らいじゅう》とそうしてズクは両人共|極《きわ》めて不風流|故《ゆえ》、床の間の上へ据《す》えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入《かさいれ》に、僕の洋杖《ステッキ》が差さっているはずです。あれも価格《ねだん》から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出《ひきだし》へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入《でいり》の都度《つど》、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。

停留所 一

 敬太郎《けいたろう》に須永《すなが》という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌《だいきらい》で、法律を修《おさ》めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義《たいえいしゅぎ》の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋《さみ》しいような、また床《ゆか》しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇《のぼ》った上、元来が貨殖《かしょく》の道に明らかな人であっただけ、今では母子共《おやことも》衣食の上に不安の憂《うれい》を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半《なか》ばはこの安泰な境遇に慣《な》れて、奮闘の刺戟《しげき》を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体《せけんてい》の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢《ぜいたく》ばかり云ってちゃもったいない。厭《いや》なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談《じょうだん》半分に須永を強請《せび》ることもあった。すると須永は淋《さび》しそうなまた気の毒そうな微笑を洩《も》らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深《しゅうねんぶか》くない性質《たち》だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有《も》たない彼は、朝から晩まで下宿の一《ひ》と間《ま》にじっと坐っている苦痛に堪《た》えなかった。用がなくっても半日は是非出て歩《あ》るいた。そうしてよく須永の家《うち》を訪問《おとず》れた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口《くち》も糊口[#「糊口」は底本では「口糊」]だが、糊口より先に、何か驚嘆に価《あたい》する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒《すり》にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛《そくばく》だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地《いち》はどうでもいいから思う存分勝手な真似《まね》をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭《いや》に人を束縛するよ教育が」と忌々《いまいま》しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目《まじめ》なのだか、またはただ空焦燥《からはしゃぎ》に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募《つの》るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
 敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜《もぐ》る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫《つか》んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他《ひと》の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露《ばくろ》にあるのだから、あらかじめ人を陥《おとしい》れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者|否《いな》人間の異常なる機関《からくり》が暗い闇夜《やみよ》に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺《なが》めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆《さから》わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪《にく》く思って別れた。けれども五日と経《た》たないうちにまた須永の宅《うち》へ行きたくなって、表へ出ると直《すぐ》神田行の電車に乗った。

 須永《すなが》はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標《めじるし》に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上《つまさきのぼ》りに折れて、二三度不規則に曲った極《きわ》めて分り悪《にく》い所にいた。家並《いえなみ》の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影《みかげ》の上を渡らなければ、格子先《こうしさき》の電鈴《ベル》に手が届かないくらいの一構《ひとかまえ》であった。もとから自分の持家《もちいえ》だったのを、一時親類の某《なにがし》に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人《ぶにん》の活計《くらし》には場所も広さも恰好《かっこう》だろうという母の意見から、駿河台《するがだい》の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎《けいたろう》はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板《てんじょういた》を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継《つ》ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗《きれい》に明かな四畳六畳|二間《ふたま》つづきの室《へや》であった。その室に坐《すわ》っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目《ちょうなめ》の付いた板塀《いたべい》の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺《てすり》から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草《さぎそう》を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
 彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑《けいべつ》すると同時に、閑静ながら余裕《よゆう》のあるこの友の生活を羨《うら》やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑《まだら》な興味を懐《ふところ》に、彼は須永を訪問したのである。
 例の小路《こうじ》を二三度曲折して、須永の住居《すま》っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜《くぐ》った。敬太郎はただ一目《ひとめ》その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味《ロマンしゅみ》とが力を合せて、引き摺《ず》るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと覗《のぞ》いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉《もみじ》を引手《ひきて》に張り込んだ障子《しょうじ》が、閑静に閉《しま》っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺《なが》めていたが、やがて沓脱《くつぬぎ》の上に脱ぎ捨てた下駄《げた》に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃《そろ》っているだけで、下女が手をかけて直した迹《あと》が少しも見えない。敬太郎は下駄の向《むき》と、思ったより早く上《あが》ってしまった女の所作《しょさ》とを継《つ》ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独《ひと》りで勝手に障子を開けて這入《はい》った極《きわ》めて懇意の客だろうと推察した。でなければ家《うち》のものだが、それでは少し変である。須永の家《いえ》は彼と彼の母と仲働《なかばたら》きと下女の四人《よつたり》暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺《うかが》うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文《あや》に二人の浪漫《ロマン》を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳《ききみみ》は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶《なま》めいた女の声どころか、咳嗽《せき》一つ聞えなかった。
「許嫁《いいなずけ》かな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚《めしたき》は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語《ささや》いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸《こうしど》をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝《ひるね》をしている。女はそこへ這入《はい》ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑《きつねつき》のようにのそりと立っていた。

 すると二階の障子《しょうじ》がすうと開《あ》いて、青い色の硝子瓶《ガラスびん》を提《さ》げた須永《すなが》の姿が不意に縁側《えんがわ》へ現われたので敬太郎《けいたろう》はちょっと吃驚《びっくり》した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉《のど》の周囲《まわり》に白いフラネルを捲《ま》いていた。手に提《さ》げたのは含嗽剤《がんそうざい》らしい。敬太郎は上を向いて、風邪《かぜ》を引いたのかとか何とか二三言葉を換《か》わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚《さと》らない人のごとく、軽く首肯《うなず》いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段《はしごだん》を上《あが》る時、敬太郎は奥の部屋で微《かす》かに衣摺《きぬずれ》の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞《たく》ましくしたという疚《や》ましさもあり、また面《めん》と向ってすぐとは云い悪《にく》い皮肉な覘《ねらい》を付けた自覚もあるので、今しがた君の家《うち》へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧《お》し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼《かね》て須永から聞いている内幸町《うちさいわいちょう》の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目《まじめ》に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合《つれあい》で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有《も》っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉《か》りてどうしようという料簡《りょうけん》もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余《あんまり》進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
 須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、咽喉《のど》を痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい身体《からだ》だしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。余り望《のぞみ》を置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ず宜《よろ》しく頼む気になった。が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
 元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯《いつわ》りなき事実ではあるが、いまだに成効《せいこう》の曙光《しょこう》を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値《かけね》が籠《こも》っていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地《でんじ》を有《も》っていた。固《もと》より大した穀高《こくだか》になるというほどのものでもないが、俵《ひょう》がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒《からさわぎ》でないにしても、郷党だの朋友《ほうゆう》だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽《あお》られている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家《ロマンか》だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮《あざ》やかならぬ及第をしてしまったのである。

 それで約一時間ほど須永《すなが》と話す間にも、敬太郎《けいたろう》は位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり先刻《さっき》見た後姿《うしろすがた》の女の事が気に掛って、肝心《かんじん》の世渡りの方には口先ほど真面目《まじめ》になれなかった。一度|下座敷《したざしき》で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち壊《こわ》す道具になって、せっかくの問が間外《まはず》れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
 それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に媚《こ》びるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路《こうじ》のために、賽《さい》の目《め》のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど戸《こ》ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
 まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋《かなものや》の隠居の妾《めかけ》がいる。その妾が宮戸座《みやとざ》とかへ出る役者を情夫《いろ》にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言《だいげん》だか周旋屋《しゅうせんや》だか分らない小綺麗《こぎれい》な格子戸作《こうしどづく》りの家《うち》があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板《ボールド》へ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、襞《ひだ》を取った紺綾《こんあや》の長いマントをすぽりと被《かぶ》って、まるで西洋の看護婦という服装《なり》をして来て職業の周旋を頼んだ。それが其家《そこ》の主人の昔《むか》し書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭《しらがあたま》で廿《はたち》ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の抵当《かた》に取った女房だそうである。その隣りの博奕打《ばくちうち》が、大勢同類を寄せて、互に血眼《ちまなこ》を擦《こす》り合っている最中に、ねんね子で赤ん坊を負《おぶ》ったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主を迎《むかえ》に来る事がある。かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれと縋《すが》りつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣《あたり》の眠《ねむり》を驚ろかせる。……
 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭《ぬぐ》ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。固《もと》よりその推察の裏には先刻《さっき》見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉《のど》が痛いから」と云った。さも小説は有《も》っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶《あいさつ》に聞えた。
 敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を利《き》かして隠したのか、彼にはまるで見当《けんとう》がつかなかった。表へ出るや否や、どういう料簡《りょうけん》か彼はすぐ一軒の煙草屋《たばこや》へ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻を銜《くわ》えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端《とたん》に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入《はい》って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟《つ》いて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡《とおめがね》で世の中を覗《のぞ》いていて、浪漫的《ロマンてき》探険なんて気の利いた真似《まね》ができるものか」と須永から冷笑《ひや》かされたような心持がし出した。

 彼は今日《こんにち》まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《くぐ》れない格子戸《こうしど》だの、三和土《たたき》の上から訳《わけ》もなくぶら下がっている鉄灯籠《かなどうろう》だの、上《あが》り框《がまち》の下を張り詰めた綺麗《きれい》に光る竹だの、杉だか何だか日光《ひ》が透《とお》って赤く見えるほど薄っぺらな障子《しょうじ》の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面《きちょうめん》に暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う楊枝《ようじ》の削《けず》り方《かた》まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆《たばこぼん》のように、先祖代々順々に拭《ふ》き込まれた習慣を笠《かさ》に、恐るべく光っているのだろうと推察する。須永《すなが》の家《うち》へ行って、用もない松へ大事そうな雪除《ゆきよけ》をした所や、狭い庭を馬鹿丁寧《ばかていねい》に枯松葉で敷きつめた景色《けしき》などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の懐《ふところ》に、ぽうと育った若旦那《わかだんな》を聯想《れんそう》しない訳に行かなかった。第一須永が角帯《かくおび》をきゅうと締《し》めてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄《ながうた》の好きだとかいう御母《おっか》さんが時々出て来て、滑《すべ》っこい癖《くせ》にアクセントの強い言葉で、舌触《したざわり》の好い愛嬌《あいきょう》を振りかけてくれる折などは、昔から重詰《じゅうづめ》にして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合《できあい》以上の旨《うま》さがあるので、紋切形《もんきりがた》とは無論思わないけれども、幾代《いくだい》もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に潜《ひそ》んでいるとしか受取れなかった。
 要するに敬太郎《けいたろう》はもう少し調子外《ちょうしはず》れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日《きょう》の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿《しめ》っぽい空気がいまだに漂《ただ》よっている黒い蔵造《くらづくり》の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町《かきがらちょう》の水天宮様《すいてんぐうさま》と深川の不動様へ御参りをして、護摩《ごま》でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊《きゅうへい》な真似《まね》を当り前のごとくやっている。)それから鉄無地《てつむじ》の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世《とうせい》に崩《くず》して往来へ流した匂《におい》のする町内を恍惚《こうこつ》と歩きたかった。そうして習慣に縛《しば》られた、かつ習慣を飛び超《こ》えた艶《なま》めかしい葛藤《かっとう》でもそこに見出したかった。
 彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は物好《ものずき》にも自《みずか》ら進んでこの後《うし》ろ暗《ぐら》い奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑を蒙《こう》むるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんに依《よ》っては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫《ロマン》が急に温味《あたたかみ》を失って、醜《みに》くい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に口髭《くちひげ》をだらしなく垂らした二重瞼《ふたえまぶち》の瘠《やせ》ぎすの森本の顔だけは粘《ねば》り強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、侮《あなど》りたいような、また憐《あわれ》みたいような心持になった。そうしてこの凡庸《ぼんよう》な顔の後《うしろ》に解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が記念《かたみ》にくれると云った妙な洋杖《ステッキ》を聯想《れんそう》した。
 この洋杖は竹の根の方を曲げて柄《え》にした極《きわ》めて単簡《たんかん》のものだが、ただ蛇《へび》を彫ってあるところが普通の杖《つえ》と違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何か呑《の》みかけているところを握《にぎり》にしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸く滑《すべ》っこく削《けず》られているので、蛙《かえる》だか鶏卵《たまご》だか誰にも見当《けんとう》がつかなかった。森本は自分で竹を伐《き》って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。

 敬太郎《けいたろう》は下宿の門口《かどぐち》を潜《くぐ》るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりも途《みち》すがらの聯想が、硝子戸《ガラスど》を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物《せともの》の傘入《かさいれ》の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入《でいり》の際視線を逸《そ》らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍《そば》を通るのが苦になってきて、極《きわ》めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟《たた》られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に溯《さかの》ぼる嫌疑《けんぎ》を恐れて、森本の居所もまたその言伝《ことづて》も主人夫婦に告げられないという弱味を有《も》っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇《くもり》もかけなかった。記念《かたみ》として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他《ひと》の好意を空《むなし》くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死《じに》という終りを告げるのだろう。)その憐《あわ》れな最期《さいご》を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって刻《きざ》まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開《あ》いたまま喰付《くっつ》いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟《おおげさ》ではあるが一種の因果《いんが》のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計《かっけい》とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災《わざわい》されていなかったのである。
 今日も洋杖《ステッキ》は依然として傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱《げたばこ》の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の室《へや》に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信《たより》の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者《ヴァガボンド》を知己に有《も》つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛《まぎ》れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後《あと》へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲《まんしゅう》の霜《しも》や風はさぞ凌《しの》ぎ悪《にく》いだろう。ことにあなたの身体《からだ》ではひどく応《こた》えるに違《ちがい》ないから、是非用心して病気に罹《かか》らないようになさいと優しい文句を数行《すぎょう》綴《つづ》った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨《うま》くかつ長く、そうして誰が見ても実意の籠《こも》っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶《あいさつ》に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、固々《もともと》恋人に送る艶書《えんしょ》ほど熱烈な真心《まごころ》を籠《こ》めたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして前《さき》へ進んだ。

 森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのは厭《いや》だし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、敬太郎《けいたろう》は筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合の宜《い》いように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、雷獣《らいじゅう》の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の盆栽《ぼんさい》を下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
 敬太郎はいよいよ洋杖《ステッキ》のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召《おぼしめし》だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい嘘《うそ》は吐《つ》けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入《かさいれ》の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減《いいかげん》な御世辞《おせじ》を並べて、事実を暈《ぼか》す手段とした。
 状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚《はば》からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の袂《たもと》の中に蔵《かく》した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段《はしごだん》を下まで降り切ると、須永《すなが》から電話が掛った。
 今日内幸町から従妹《いとこ》が来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会って貰《もら》えまいかと電話で聞いて見たら、宜《よろ》しいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に咽喉《のど》が痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間|拵《こし》らえたセルの袴《はかま》を穿《は》いた上、いよいよ表へ出た。
 曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、肝心《かんじん》の森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただ微《かす》かな火気《ほとぼり》を残すのみであった。それでも状袋が郵便函の口を滑《すべ》って、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を披《ひら》く様を想見して、満更《まんざら》悪い心持もしまいと思った。
 それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が明神下《みょうじんした》へ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
 敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心を徒《いたず》らに刺戟《しげき》しただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ這入《はい》ったあの女らしい。想像と事実を継《つ》ぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで泡立《あわだ》っていた自分の好奇心に幾分の冷水を注《さ》したような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。

 彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても須永《すなが》の門口《かどぐち》まで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った詮議《せんぎ》をすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども真直《まっすぐ》に神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の従妹《いとこ》の家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行の辺《あたり》で下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。淋《さび》しい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯《ガス》に田口《たぐち》と書いた門の中を覗《のぞ》いて見ると、思ったより奥深そうな構《かまえ》であった。けれども実際は砂利を敷いた路《みち》が往来から筋違《すじかい》に玄関を隠しているのと、正面を遮《さえ》ぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分か厳《いか》めしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に這入《はい》ったところでは見付《みつき》ほど手広な住居《すまい》でもなかった。
 玄関には西洋擬《せいようまが》いの硝子戸《ガラスど》が二枚|閉《た》ててあったが、頼むといっても、電鈴《ベル》を押しても、取次がなかなか出て来ないので、敬太郎《けいたろう》はやむを得ずしばらくその傍《そば》に立って内の様子を窺《うか》がっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子《すりガラス》がぱっと明るくなった。それから庭下駄《にわげた》で三和土《たたき》を踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方|開《あ》いた。敬太郎はこの際取次の風采《ふうさい》を想望するほどの物数奇《ものずき》もなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでも絣《かすり》の羽織《はおり》を着た書生か、双子《ふたこ》の綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、今《いま》戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な服装《なり》をした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は判然《はっきり》しなかったが、白縮緬《しろちりめん》の帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ挨拶《あいさつ》をする余裕《よゆう》も出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが乃至《ないし》六十代だろうがほとんど区別のない一様《いちよう》の爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対して有《も》たなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような無気味《ぶきみ》を覚えるのが常なので、なおさら迷児《まご》ついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧《ていねい》でもなければ軽蔑《けいべつ》でもない至って無雑作《むぞうさ》なその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると年嵩《としかさ》な男は思い出したように、「そうそう先刻《さっき》市蔵《いちぞう》(須永の名)から電話で話がありました。しかし今夜|御出《おいで》になるとは思いませんでしたよ」と云った。そうして君そう早く来たっていけないという様子がその裏に見えたので、敬太郎は精一杯《せいいっぱい》言訳をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといった風に黙って立っていたが、「そんならまたいらっしゃい。四五日うちにちょっと旅行しますが、その前に御目にかかれる暇さえあれば、御目にかかっても宜《よ》うござんす」と云った。敬太郎は篤《あつ》く礼を述べてまた門を出たが、暗い夜《よ》の中で、礼の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思った。
 これはずっと後《あと》になって、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、ここの主人は、この時玄関に近い応接間で、たった一人|碁盤《ごばん》に向って、白石と黒石を互違《たがいちがい》に並べながら考え込んでいたのだそうである。それは客と一石《いっせき》やった後の引続きとして、是非共ある問題を解決しなければ気がすまなかったからであるが、肝心《かんじん》のところで敬太郎がさも田舎者《いなかもの》らしく玄関を騒がせるものだから、まずこの邪魔を追っ払った後でというつもりになって、じれったさの余り自分と取次に出たのだという。須永にこの顛末《てんまつ》を聞かされた時に、敬太郎はますます自分の挨拶《あいさつ》が丁寧《ていねい》過ぎたような気がした。

 中一日《なかいちにち》置いて、敬太郎《けいたろう》は堂々と田口へ電話をかけて、これからすぐ行っても差支《さしつかえ》ないかと聞き合わせた。向うの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話しぶりの比較的|横風《おうふう》なところからだいぶ位地の高い人とでも思ったらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、ただいま主人の都合をちょっと尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を伝えるときは、「ああ、もしもし今ね、来客中で少し差支えるそうです。午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です」と前よりは言葉がよほど粗末《ぞんざい》になっていた。敬太郎は、「そうですか、それでは一時頃上りますから、どうぞ御主人に宜《よろ》しく」と答えて電話を切ったが、内心は一種|厭《いや》な心持がした。
 十二時かっきりに午飯《ひるめし》を食うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいた膳《ぜん》が、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘に急《せ》き立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では一昨日《おととい》の晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に無雑作《むぞうさ》な取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは愛嬌《あいきょう》のある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰を曲《かが》めて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども先刻《さっき》電話の取次に出たもののように、五分と経《た》たないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。その癖《くせ》自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない性質《たち》であった。
 小川町の角で、斜《はす》に須永《すなが》の家《うち》へ曲《まが》る横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に日蔭《ひかげ》から日向《ひなた》へ想像を移した。今日も美くしい須永の従妹《いとこ》のいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、億劫《おっくう》な手数《てかず》をかけて、好い顔もしない爺《じい》さんに、衣食の途《みち》を授けて下さいと泣《なき》つきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取っては遥《はる》かに麗《うらら》かであったからである。彼は須永の従妹《いとこ》と田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で先方《さき》の人品は判然《はっきり》分らなかったけれども、眼鼻だちの輪廓《りんかく》だけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目《よめ》にも疑《うたがい》なく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、器量《きりょう》はあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような日向日蔭《ひなたひかげ》の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対して抱《いだ》いていたのである。それを互違にくり返した後《あと》、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が御者《ぎょしゃ》を乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
 玄関へ掛って名刺を出すと、小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ這入《はい》って行った。その声が確かに先刻《さっき》電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿《うしろすがた》を見送りながら厭《いや》な奴《やつ》だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に突立《つった》っていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、御膳《おぜん》などが出て混雑《ごたごた》しているんです」
 落ちついて聞きさえすれば満更《まんざら》無理もない言訳なのだが、電話以後この取次が癪《しゃく》に障《さわ》っている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方から先《せん》を越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄《ひょうそく》の合わない捨台詞《すてぜりふ》のような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにその傍《そば》を擦《す》り抜けて表へ出た。

 彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後《あと》、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永《すなが》と彼の従妹《いとこ》とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継《つ》ぎ合せつつある一部始終《いちぶしじゅう》を御馳走《ごちそう》に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍《わき》に立った彼の頭には、そんな余裕《よゆう》はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所《ありか》をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固《もと》よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一《ちくいち》顛末《てんまつ》を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間《ま》があった。須永の家《うち》の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子《しょうじ》は立て切ったままついに開《あ》かなかった。もっとも彼は体裁家《ていさいや》で、平生からこういう呼び出し方を田舎者《いなかもの》らしいといって厭《いや》がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎《けいたろう》は正式に玄関の格子口《こうしぐち》へかかった。けれども取次に出た仲働《なかばたらき》の口から「午《ひる》少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪《かぜ》を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
 敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入《はい》った。と思うと襖《ふすま》の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長《おもなが》の下町風に品《ひん》のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
 須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣《えどな》れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一《だいち》どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体《せけんてい》の好い御世辞《おせじ》と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失《な》くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙《からかみ》を締《し》めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉《さくら》を埋《い》けた火鉢《ひばち》を勧めてくれたりするうちに、一時|昂奮《こうふん》した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗《あきたぶき》を一面に大きく摺《す》った襖《ふすま》の模様だの、唐桑《からくわ》らしくてらてらした黄色い手焙《てあぶり》だのを眺《なが》めて、このしとやかで能弁な、人を外《そら》す事を知らないと云った風の母と話をした。
 彼女の語るところによると、須永は今日|矢来《やらい》の叔父の家《うち》へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向《こびなた》へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃|無精《ぶしょう》になったようですね、この間も他《ひと》に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中《じゅう》から風邪を引いて咽喉《のど》を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無《がむ》しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着《むとんじゃく》でございますから……」
 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で伜《せがれ》の話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の後《あと》へ喰付《くっつ》いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。

十一

 そのうち話がいつか肝心《かんじん》の須永《すなが》を逸《そ》れて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。これは内幸町と違って、この御母《おっか》さんの実の弟に当る男だそうで、一種の贅沢屋《ぜいたくや》のように敬太郎《けいたろう》は須永から聞いていた。外套《がいとう》の裏は繻子《しゅす》でなくては見っともなくて着られないと云ったり、要《い》りもしないのに古渡《こわた》りの更紗玉《さらさだま》とか号して、石だか珊瑚《さんご》だか分らないものを愛玩《あいがん》したりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで贅沢《ぜいたく》に遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
 須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の途切《とぎ》れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を継《つ》いだ。
「それでも妹婿《いもとむこ》の方は御蔭《おかげ》さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟《おとと》などになりますと、云わば、浪人《ろうにん》同様で、昔に比《くら》べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体《てい》たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
 敬太郎は何となく自分の身の上を顧《かえり》みて気恥かしい思をした。幸《さいわい》にさきがすらすら喋舌《しゃべ》ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの得《とく》として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、務《つとめ》にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着《むとんじゃく》であなた……」
 敬太郎はこの点において実際須永が横着過《おうちゃくすぎ》ると平生《ふだん》から思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入《はい》って算盤《そろばん》なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が嬉《うれ》しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
 敬太郎はこの時自分が今日何のために馳《か》け込むようにこの家を襲《おそ》ったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜《くぐ》らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞《せりふ》を云って帰る気でいたのに、肝心《かんじん》の須永は留守《るす》で、事情も何も知らない彼の母から、逆《さか》さにいろいろな話をしかけられたので、怒《おこ》ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見を遂《と》げ得なかった顛末《てんまつ》だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。

十二

「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から敬太郎《けいたろう》が躍起《やっき》になって口を探《さが》している事や、探しあぐんで須永《すなが》に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の傍《そば》にいる母として彼女《かのおんな》のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方《さき》で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと力《つと》めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、間《ま》の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ腹《ぱら》を立てて悪体《あくたい》を吐《つ》いた事などは話のうちから綺麗《きれい》に抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した後《あと》で、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。妹《いもと》などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々《おちおち》話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作《ようさく》さんいくら御金が儲《もう》かるたって、そう働らいて身体《からだ》を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本《もとで》じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が湧《わ》いてくるんで、傍《そば》から掬《しゃ》くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴《つ》れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように急《せ》き立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿《むこ》を取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人の方《かた》が、須永君のところへ御出《おいで》になる訳でもないんですか」
 母はちょっと口籠《くちごも》った。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。当人達《とうにんたち》の存じ寄りもしかと聞糺《ききただ》して見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱急《やきもき》思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。一度|退《ひ》きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、善《よ》くないという克己心《こっきしん》にすぐ抑えられた。
 母はなお田口の弁護をした。そんな忙がしい身体《からだ》だから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、緩《ゆっ》くり会ったら宜《よ》かろうという注意とも慰藉《いしゃ》ともつかない助言《じょごん》も与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけば馳《か》けて帰って来て会うといった風の性質《たち》でございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」
 こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻《さっき》のようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし今更《いまさら》それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者《ひょうきんもの》でございますから」と云って一人で笑った。

十三

 剽軽者という言葉は田口の風采《ふうさい》なり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎《けいたろう》の腑《ふ》に落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口は昔《むか》しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は熱《ほて》り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が怪訝《けげん》な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと捻《ねじ》って暗くするんだと真面目《まじめ》に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎《いなか》から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って捻《ひね》ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも悄然《しょげ》ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここの家《うち》にも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう真《ま》に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち点《つ》けっ放《ぱな》しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て門司《もじ》とか馬関《ばかん》とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が入《い》っている。いっしょに行くべきはずのAという男に差支《さしつかえ》が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の退屈紛《たいくつまぎ》れに、彼はAを一つ担《かつ》いでやろうと巧《たく》らんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯《いたずら》で、彼はその店から地方《ところ》の芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように拵《こしら》えた。その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように艶《なま》めかしく曲《くね》らしたもので、誰が貰《もら》っても嬉《うれ》しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日《あした》ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。力《つと》めて真面目《まじめ》な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》に向った時、突然思い出したように袂《たもと》の中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっと箸《はし》を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み下《くだ》すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや否《いな》や、急に丸めるように懐《ふところ》へ入れてしまった。何か急《いそぎ》の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領《ふとくようりょう》にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて馳《か》け出して、その思わく通りどこの何という家《うち》の門《かど》へおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦《かみさん》を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯《ちょうちん》を点《つ》けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗《きれい》な座敷へ通して、叮嚀《ていねい》に取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様《おつれさま》はとうから御待兼《おまちかね》でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で煙草《たばこ》を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事が旨《うま》い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋の傍《そば》へ行って間の襖《ふすま》を開けながら、やあ早かったねと挨拶《あいさつ》すると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の悪戯《いたずら》を話した上、「担《かつ》いだ代りに今夜は僕が奢《おご》るよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう飄気《ひょうげ》た真似《まね》をする男なんでございますから」と須永の母も話した後《あと》でおかしそうに笑った。敬太郎はあの自働車はまさか悪戯《いたずら》じゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。

十四

 自動車事件以後|敬太郎《けいたろう》はもう田口の世話になる見込はないものと諦《あき》らめた。それと同時に須永《すなが》の従弟《いとこ》と仮定された例の後姿《うしろすがた》の正体も、ほぼ発端《ほったん》の入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた煮切《にえき》らないような不愉快があった。彼は今日《こんにち》まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を有《も》っていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、貫《つら》ぬき終《おお》せた試《ためし》がなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、向《むこう》で引き摺《ず》り出してくれたのだから、中途で動けなくなった間怠《まだる》さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の晴々《せいせい》した心持も知らなかった。
 彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自《みず》から進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに透《す》き徹《とお》るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮《あざや》かに見えながら、自分だけ硝子張《ガラスばり》の箱の中に入れられて、外の物と直《じか》に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息《ちっそく》するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹《かか》っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日《こんにち》まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託《くったく》しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張《きば》る事さえ覚えれば、当っても外《はず》れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日《こんにち》までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
 敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けの後《あと》の祭のような気がして、何という当《あて》もなくまた三四日《さんよっか》ぶらぶらと暮した。その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも薬缶頭《やかんあたま》を攫《つか》むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。彼は碁《ご》を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折《はらんきょくせつ》のある碁が見たいと思った。
 すると直《すぐ》須永と後姿の女との関係が想像された。もともと頭の中でむやみに色沢《つや》を着けて奥行《おくゆき》のあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところが他《ひと》の事を余計なおせっかいだと、自分で自分を嘲《あざ》けりながら、ああ馬鹿らしいと思う後《あと》から、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいと閃《ひら》めいて来るのである。そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない浪漫的《ロマンチック》な或物にぶつかるかも知れないと考え出す。すると田口の玄関で怒《おこ》ったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
 職業についても、あんな些細《ささい》な行違《ゆきちがい》のために愛想《あいそ》づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。あれでできるともできないとも、まだ方《かた》のつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。そうして好んで煮《にえ》きらない思いに悩んでいる姿になってしまった。須永の母の保証するところでは、田口という老人は見かけに寄らない親切気のある人だそうだから、あるいは旅行から帰って来た上で、また改めて会ってくれないとも限らない。が、こっちからもう一遍会見の都合を問い合せたりなどして、常識のない馬鹿だと軽蔑《さげす》まれてもつまらない。けれどもどの道突き抜けた心持をしっかり捕《つら》まえるためには馬鹿と云われるまでも、そこまで突っかけて行く必要があるだろう。――敬太郎は屈託しながらもいろいろ考えた。

十五

 けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、敬太郎《けいたろう》の思案には屈託の裏《うち》に、どこか呑気《のんき》なものがふわふわしていた。この道をとどのつまりまで進んで見ようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいものに移る支度をしようか。問題は煎《せん》じつめるまでもなく当初から至極《しごく》簡単にでき上っていたのである。それに迷うのは、一度|籤《くじ》を引き損《そく》なったが最後、もう浮ぶ瀬はないという非道《ひど》い目に会うからではなくって、どっちに転んでも大した影響が起らないため、どうでも好いという怠けた心持がいつしらず働らくからである。彼は眠い時に本を読む人が、眠気《ねむけ》に抵抗する努力を厭《いと》いながら、文字の意味を判明《はっきり》頭に入れようと試みるごとく、呑気《のんき》の懐《ふところ》で決断の卵を温めている癖に、ただ旨《うま》く孵化《かえ》らない事ばかり苦にしていた。この不決断を逃《のが》れなければという口実の下《もと》に、彼は暗《あん》に自分の物数奇《ものずき》に媚《こ》びようとした。そうして自分の未来を売卜者《うらないしゃ》の八卦《はっけ》に訴えて判断して見る気になった。彼は加持《かじ》、祈祷《きとう》、御封《ごふう》、虫封《むしふう》じ、降巫《いちこ》の類《たぐい》に、全然信仰を有《も》つほど、非科学的に教育されてはいなかったが、それ相当の興味は、いずれに対しても昔から今日《こんにち》まで失わずに成長した男である。彼の父は方位九星《ほういきゅうせい》に詳しい神経家であった。彼が小学校へ行く時分の事であったが、ある日曜日に、彼の父は尻を端折《はしょ》って、鍬《くわ》を担《か》ついだまま庭へ飛び下りるから、何をするのかと思って、後《あと》から跟《つ》いて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあの乾《いぬい》に当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確に鍬《くわ》を下ろすつもりなら、肝心《かんじん》の時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の迂闊《うかつ》をおかしく思った。学校の時計と自分の家《うち》のとはその時二十分近く違っていたからである。ところがその後《ご》摘草《つみくさ》に行った帰りに、馬に蹴《け》られて土堤《どて》から下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我《けが》も何もしなかったのを、御祖母《おばあ》さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭《おかげ》だこれ御覧《ごらん》と云って、馬の繋《つな》いであった傍《そば》にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛《よだれかけ》だけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体《からだ》の具合や四辺《あたり》の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日《こんにち》に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
 こういう訳《わけ》で、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも大道占《だいどううらな》いの弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を眺《なが》めていた。もっとも金を払って筮竹《ぜいちく》の音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然《しょんぼり》そこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいる憐《あわ》れな人に、易者《えきしゃ》がどんな希望と不安と畏怖《いふ》と自信とを与えるだろうという好奇心に惹《ひ》かされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から立聞《たちぎき》をする事がしばしばあった。彼の友の某《なにがし》が、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思い煩《わずら》っている頃、ある人が旅行のついでに、善光寺如来《ぜんこうじにょらい》の御神籤《おみくじ》をいただいて第五十五の吉というのを郵便で送ってくれたら、その中に雲《くも》散《さん》じて月重ねて明らかなり、という句と、花|発《ひら》いて再び重栄《ちょうえい》という句があったので、物は試しだからまあ受けて見ようと云って、受けたら綺麗《きれい》に及第した時、彼は興に乗って、方々の神社で手当りしだい御神籤をいただき廻った事さえある。しかもそれは別にこれという目的なしにいただいたのだから彼は平生でも、優に売卜者《うらないしゃ》の顧客《とくい》になる資格を充分具えていたに違ない。その代り今度のような場合にも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようという浮気がだいぶ交っていた。

十六

 敬太郎《けいたろう》はどこの占《うら》ない者《しゃ》に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという当《あて》もなかった。白山《はくさん》の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行《はや》るのは山師《やまし》らしくって行く気にならず、と云って、自分で嘘《うそ》と知りつつ出鱈目《でたらめ》を強《し》いてもっともらしく述べる奴《やつ》はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない家《うち》で、閑静な髯《ひげ》を生やした爺《じい》さんが奇警《きけい》な言葉で、簡潔にすぱすぱと道《い》い破《やぶ》ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里《くに》の一本寺《いっぽんじ》の隠居の顔を頭の中に描《えが》き出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような占《うら》ない者《しゃ》の看板にぶつかるだろうという漠然《ばくぜん》たる頭に帽子を載《の》せた。
 彼は久しぶりに下谷の車坂《くるまざか》へ出て、あれから東へ真直《まっすぐ》に、寺の門だの、仏師屋《ぶっしや》だの、古臭《ふるくさ》い生薬屋《きぐすりや》だの、徳川時代のがらくたを埃《ほこり》といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡《もんぜき》の中を抜けて、奴鰻《やっこうなぎ》の角へ出た。
 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父《じい》さんから、しばしば観音様《かんのんさま》の繁華《はんか》を耳にした。仲見世《なかみせ》だの、奥山《おくやま》だの、並木《なみき》だの、駒形《こまかた》だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯《なめし》と田楽《でんがく》を食わせるすみ屋という洒落《しゃれ》た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗《きれい》な縄暖簾《なわのれん》を下げた鰌屋《どじょうや》は昔《むか》しから名代《なだい》なものだとか、食物《くいもの》の話もだいぶ聞かされたが、すべての中《うち》で最も敬太郎の頭を刺戟《しげき》したものは、長井兵助《ながいひょうすけ》の居合抜《いあいぬき》と、脇差《わきざし》をぐいぐい呑《の》んで見せる豆蔵《まめぞう》と、江州伊吹山《ごうしゅういぶきやま》の麓《ふもと》にいる前足が四つで後足《あとあし》が六つある大蟇《おおがま》の干し固めたのであった。それらには蔵《くら》の二階の長持の中にある草双紙《くさぞうし》の画解《えとき》が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の下駄《げた》を穿《は》いたまま、小さい三宝《さんぼう》の上に曲《しゃ》がんだ男が、襷《たすき》がけで身体《からだ》よりも高く反《そ》り返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆《がま》の上に胡坐《あぐら》をかいて、児雷也《じらいや》が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡《てんがんきょう》を持った白い髯の爺さんが、唐机《とうづくえ》の前に坐って、平突《へいつく》ばったちょん髷《まげ》を上から見下《みおろ》すところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内《けいだい》には、歴史的に妖嬌陸離《ようきょうりくり》たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎《かげろ》っていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢は固《もと》より手痛く打ち崩《くず》されてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠《こう》の鳥《とり》が巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡《りょうけん》が暗《あん》に働らいて、足が自《おの》ずとこっちに向いたのである。しかしルナパークの後《うしろ》から活動写真の前へ出た時は、こりゃ占《うら》ない者《しゃ》などのいる所ではないと今更《いまさら》のようにその雑沓《ざっとう》に驚ろいた。せめて御賓頭顱《おびんずる》でも撫《な》でて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へ上《あが》って、魚河岸《うおがし》の大提灯《おおぢょうちん》と頼政《よりまさ》の鵺《ぬえ》を退治《たいじ》ている額だけ見てすぐ雷門《かみなりもん》を出た。敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。もし在《あ》ったら何でも構わないから入る事にしよう。あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに恰好《かっこう》な飯屋《めしや》でも探す気で歩いていた。ところがいざ探すとなると生憎《あいにく》なもので、平生《ふだん》は散歩さえすればいたるところに神易《しんえき》の看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている卜者《うらない》はまるで見当らなかった。敬太郎はこの企図《くわだて》もまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら蔵前《くらまえ》まで来た。するとやっとの事で尋ねる商売の家《うち》が一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書《わりがき》をした下に、文銭占《ぶんせんうら》ないと白い字で彫って、そのまた下に、漆《うるし》で塗った真赤《まっか》な唐辛子《とうがらし》が描《か》いてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼を惹《ひ》いた。

十七

 よく見るとこれは一軒の生薬屋《きぐすりや》の店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした差掛《さしかけ》様のものを作ったので、中に七色唐辛子《なないろとうがらし》の袋を並べてあるから、看板の通りそれを売る傍《かたわ》ら、占ないを見る趣向に違ない。敬太郎《けいたろう》はこう観察して、そっと餡転餅屋《あんころもちや》に似た差掛の奥を覗《のぞ》いて見ると、小作《こづく》りな婆さんがたった一人|裁縫《しごと》をしていた。狭い室《へや》一つの住居《すまい》としか思われないのに、肝心《かんじん》の易者の影も形も見えないから、主人は他行中《たぎょうちゅう》で、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と見切《みきり》をつける訳にも行かなかった。それで二三歩先へ出て、薬種店の方を覗《のぞ》くと、八ツ目鰻《めうなぎ》の干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の棚《たな》に載《の》せた古風の装飾もなかった。一本寺《いっぽんじ》の隠居に似た髯《ひげ》のある爺さんは固《もと》より坐っていなかった。彼は再び立ち戻って、身の上判断|文銭占《ぶんせんうら》ないという看板のかかった入口から暖簾《のれん》を潜《くぐ》って内へ入った。裁縫《しごと》をしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな眼鏡《めがね》の上から睨《にら》むように敬太郎を見たが、ただ一口、占《うら》ないですかと聞いた。敬太郎は「ええちょっと見て貰《もら》いたいんだが、御留守《おるす》のようですね」と云った。すると婆さんは、膝《ひざ》の上のやわらか物を隅《すみ》の方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほど汚《よご》れた室《へや》ではなかった。現に畳などは取り替え立てでまだ新らしい香《か》がした。婆さんは煮立った鉄瓶《てつびん》の湯を湯呑《ゆのみ》に注《つ》いで、香煎《こうせん》を敬太郎の前に出した。そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。その机には無地の羅紗《らしゃ》がかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面に据《す》えて、そうして再び故《もと》の座に帰った。
「占《うら》ないは私がするのです」
 敬太郎は意外の感に打たれた。この小《ち》いさい丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った。黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のかかった着物の上に、地味な縞《しま》の羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。その上彼はこの婦人の机の上に、筮竹《ぜいちく》も算木《さんぎ》も天眼鏡《てんがんきょう》もないのを不思議に眺《なが》めた。婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴の開《あ》いた銭《ぜに》を九つ出した。敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分を操《あやつ》っている運命の糸と、どんな関係を有《も》っているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに鋳出《いだ》された模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。袋は能装束《のうしょうぞく》の切れ端か、懸物《かけもの》の表具の余りで拵《こし》らえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦《てずれ》と時代のため、派手な色を全く失っていた。
 婆さんは年寄に似合わない白い繊麗《きゃしゃ》な指で、九枚の文銭を三枚ずつ三列《みけた》に並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ一生涯《いっしょうがい》の事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」
 婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。その後《あと》で胸算用《むなざんよう》でもする案排《あんばい》しきで、指を折って見たり、ただ考《かん》がえたりしていたが、やがてまた綺麗《きれい》な指で例の文銭を新らしく並べ更《か》えた。敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。

十八

 婆さんはしばらく手を膝《ひざ》の上に載《の》せて、何事も云わずに古い銭《ぜに》の面《おもて》をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快《はっきり》纏《まと》まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎《けいたろう》の顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出《おで》になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終《すえしじゅう》御為《おため》ですから」
 婆さんは一区限《ひとくぎり》つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を窺《うかが》った。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌《しゃべ》らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言《いちげん》に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟《しげき》に応じて見たくなった。
「進んでも失敗《しくじ》るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
 これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意《わざ》とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最《もう》少し先まで御出《おで》なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
 こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込《ひっこ》む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
 婆さんはまた黙って文銭《ぶんせん》の上を眺《なが》めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同《おん》なじですね」と答えた。そうして先刻《さっき》裁縫《しごと》をしていた時に散らばした糸屑《いとくず》を拾って、その中から紺《こん》と赤の絹糸のかなり長いのを択《よ》り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗《きれい》に縒《よ》り始めた。敬太郎はただ手持無沙汰《てもちぶさた》の徒事《いたずら》とばかり思って、別段意にも留《とど》めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒《よ》り上げて、文銭の上に載《の》せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手《はで》な赤と地味な紺《こん》が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆《か》け出してやり損《そこ》ない勝《がち》のものですが、あなたのは今のところこの縒糸《よりいと》みたように丁度《ちょうど》好い具合に、いっしょに絡《から》まり合っているようですから御仕合せです」
 絹糸の喩《たとえ》は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉《うれ》しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道《じみち》を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑《の》み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言《いちごん》で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切《せつ》に思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔《へだ》たった別世界の消息なら、固《もと》より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利《き》く点もあるので、敬太郎はそこに微《かす》かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損《そこ》ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」

十九

 敬太郎《けいたろう》の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質《たち》の事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして失敗《しくじ》らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍|占《うら》ないを立て直して見て上げても宜《よ》うござんす」
 敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた繊細《きゃしゃ》な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ更《か》えた。敬太郎から云えば先《せん》の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた後《あと》で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには陰陽《いんよう》の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自《めいめい》がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人《ひと》のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入《はい》るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨《うま》く行きます」
 敬太郎は煙《けむ》に巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない霧《きり》のようなものだから、たとい嘘《うそ》でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこう埒《らち》が明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言《ねごと》に似たものを、手拭《てぬぐい》に包《くる》んだ懐炉《かいろ》のごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに七色唐辛子《なないろとうがらし》を二袋買って袂《たもと》へ入れた。
 翌日彼は朝飯《あさはん》の膳《ぜん》に向って、煙の出る味噌汁椀《みそしるわん》の蓋《ふた》を取ったとき、たちまち昨日《きのう》の唐辛子を思い出して、袂《たもと》から例の袋を取り出した。それを十二分に汁《しる》の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然《ばくぜん》と瓦斯《ガス》のごとく残っていた。しかし手のつけようのない謎《なぞ》に気を揉《も》むほど熱心な占《うら》ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心《あせ》る苦悶《くもん》を知らなかった。ただその分らないところに妙な趣《おもむき》があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片《かみぎれ》に書いて机の抽出《ひきだし》へ入れた。
 もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日《きのう》すでに婆さんの助言《じょごん》で断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は須永《すなが》へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末《てんまつ》を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ閑《ひま》な身体《からだ》だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕《けんまく》は、綺麗《きれい》に忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の挨拶《あいさつ》もないので、少し不安の念に悩まされ出した。なまじい売卜者《うらないしゃ》の言葉などに動かされて、恥を掻《か》いてはつまらないという後悔も交《まじ》った。すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。

二十

 電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今|直《すぐ》来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎《けいたろう》はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌《あいきょう》が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永《すなが》君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数《てかず》だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込《ひっこ》んでしまった。敬太郎はまた例の袴《はかま》を穿《は》きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折《なかおれ》を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲《みな》ぎらして快豁《かいかつ》に表へ出た。外には白い霜《しも》を一度に摧《くだ》いた日が、木枯《こがら》しにも吹き捲《ま》くられずに、穏《おだ》やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切《つっき》る電車の上で、光を割《さ》いて進むような感じがした。
 田口の玄関はこの間と違って蕭条《ひっそ》りしていた。取次《とりつぎ》に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀《ていねい》に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入《はい》ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃《そろ》えてくれた上靴《スリッパー》を穿《は》いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜《けんそん》から、彼は腰の高い肱懸《ひじかけ》も装飾もつかない最も軽そうなのを択《よ》って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
 やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶《あいさつ》やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶《あいさつ》した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰《てもちぶさた》と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入《まきたばこいれ》から敷島《しきしま》を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有《も》っています」
 田口は笑い出した。そうして機嫌《きげん》の好い顔つきをして、学士の数《かず》のこんなに殖《ふ》えて来た今日《こんにち》、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇《ねん》ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃《のが》れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直《すぐ》という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家《おうち》の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事《わたくしごと》にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。

二十一

 穏《おだ》やかな冬の日がまた二三日続いた。敬太郎《けいたろう》は三階の室《へや》から、窓に入る空と樹と屋根瓦《やねがわら》を眺《なが》めて、自然を橙色《だいだいいろ》に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を装《よそお》って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申《もう》し出《いで》以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺戟《しげき》に充《み》ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼を掠《かす》めて閃《ひら》めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
 すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要《い》ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細《いさい》はそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた遠眼鏡《とおめがね》の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
 彼は机の前を一寸《いっすん》も離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像を逞《たく》ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか須永《すなが》の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
 やがて待ち焦《こが》れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息も継《つ》がずに巻紙の端《はし》から端までを一気に読み通して、思わずあっという微《かす》かな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪漫的《ロマンチック》であったからである。手紙の文句は固《もと》より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十|恰好《かっこう》の男がある。それは黒の中折《なかおれ》に霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て、顔の面長《おもなが》い背の高い、瘠《や》せぎすの紳士で、眉《まゆ》と眉の間に大きな黒子《ほくろ》があるからその特徴を目標《めじるし》に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を護《まも》るために、こんな暗がりの所作《しょさ》をあえてして、他日の用に、他《ひと》の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑《うたがい》を起した。そう思った時、彼は人の狗《いぬ》に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種|苦悶《くもん》の膏汗《あぶらあせ》を腋《わき》の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと眸《ひとみ》を据《す》えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直《じか》に彼に会った時の印象とを纏《まと》めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行《ないこう》に探《さぐ》りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡《りょうけん》から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直《こうちょく》になった筋肉の底に、また温《あた》たかい血が通《かよ》い始めて、徳義に逆らう吐気《むかつき》なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺《なが》める余裕《よゆう》もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終《おお》せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。

二十二

 田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下《もと》で、乗降《のりおり》に忙がしい多数の客の中《うち》から、指定された局部の一点を目標《めじるし》に、これだと思う男を過《あやま》ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退《ひ》ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数《かず》だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先《みせさき》に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具《そな》えるやらして、電灯以外の景気を点《つ》けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定《かんじょう》に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際《てぎわ》ではという覚束《おぼつか》ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降《しもふり》の外套《がいとう》に黒の中折《なかおれ》という服装《いでたち》で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷《いちる》の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好《かっこう》にしろ手がかりになり様《よう》はずがないが、黒の中折を被《かぶ》っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日《こんにち》だから、すぐ眼につくだろう。それを目宛《めあて》に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
 こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺《なが》めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向《むこう》へ着くとしたところで、三時頃から宅《うち》を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予《ゆうよ》がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町《みとしろちょう》と小川町が、丁字《ていじ》になって交叉している三つ角の雑沓《ざっとう》が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘《いざな》うに足る上分別《じょうふんべつ》は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念《けねん》が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁《ふち》に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端《とたん》に、この間浅草で占《うら》ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎《なぞ》として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出《ひきだし》に入れておいた。でまたその紙片《かみぎれ》を取り出して、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなという句を飽《あ》かず眺《なが》めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有《も》ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲《まわり》の物から、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなものを探《さが》しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎《なぞ》を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
 ところがまず眼の前の机、書物、手拭《てぬぐい》、座蒲団《ざぶとん》から順々に進行して行李《こうり》鞄《かばん》靴下《くつした》までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥《いらだ》つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室《へや》の中を駆《か》け廻《めぐ》って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着た黒の中折を被《かぶ》った背の高い瘠《やせ》ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具《そな》えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯《ひげ》を生《は》やした森本の容貌《ようぼう》を想像の眼で眺《なが》めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。

二十三

 森本の二字はとうから敬太郎《けいたろう》の耳に変な響を伝える媒介《なかだち》となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴《ふちょう》に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖《ステッキ》を聯想《れんそう》したものだが、洋杖が二人を繋《つな》ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を割《さ》く邪魔に挟《はさ》まっていると見傚《みな》しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距離《へだたり》があって、そう一足飛《いっそくとび》に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい劇《はげ》しく敬太郎の頭を刺戟《しげき》するのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、熱《ほて》った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと捕《つか》まえたのである。
「自分のような他人《ひと》のような」と云った婆さんの謎《なぞ》はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ「長いような短かいような、出るような這入《はい》るような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の中《うち》から探《さが》し出そうという料簡《りょうけん》で、さらに新たな努力を鼓舞《こぶ》してかかった。
 始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を幾度《いくたび》か口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は抜裏《ぬけうら》と間違えて袋の口へ這入《はい》り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に悶《もだ》えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。出端《では》のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい途《みち》を探す方がましだとも考えた。しかしこう時間が逼《せま》っているのに、初手《しょて》から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁喜《えんぎ》にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての杖《つえ》を離れて、握りに刻まれた蛇《へび》の頭に移った。その瞬間に、鱗《うろこ》のぎらぎらした細長い胴と、匙《さじ》の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首《かまくび》だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を稲妻《いなずま》のごとく頭の奥に閃《ひら》めかして、得意の余り踴躍《こおどり》した。あとに残った「出るような這入《はい》るような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鶏卵《たまご》とも蛙《かえる》とも何とも名状しがたい或物が、半《なか》ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑《の》み尽されもせず、逃《のが》れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
 これで万事が綺麗《きれい》に解決されたものと考えた敬太郎は、躍《おど》り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に絡《から》んだ。帽子は手に持ったまま、袴《はかま》も穿《は》かずに室《へや》を出ようとしたが、あの洋杖《ステッキ》をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊躇《ちゅうちょ》さした。あれに手を触れるのは無論、たとい傘入《かさいれ》から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今日《こんにち》となって見れば、主人に断わらないにしろ、咎《とが》められたり怪しまれたりする気遣《きづかい》はないにきまっているが、さて彼らが傍《そば》にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを提《さ》げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁《まじない》に使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡《りょうけん》があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸《ぬす》んでやらなければ利《き》かないという言い伝えを、郷里《くに》にいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯子段《はしごだん》の中途まで降りて下の様子を窺《うか》がった。

二十四

 主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢《まるひばち》を抱《かか》え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬太郎《けいたろう》が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越《ガラスごし》に障子《しょうじ》の中を覗《のぞ》いていると、主人の頭の上で忽然《こつぜん》呼鈴《ベル》が烈《はげ》しく鳴り出した。主人は仰向《あおむ》いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次《つぎ》の間《ま》へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室《へや》へ帰って来た。
 彼はわざわざ戸棚《とだな》を開けて、行李《こり》の上に投げ出してあるセルの袴《はかま》を取り出した。彼はそれを穿《は》くとき、腰板《こしいた》を後《うしろ》に引き摺《ず》って、室《へや》の中を歩き廻った。それから足袋《たび》を脱《ぬ》いで、靴下に更《か》えた。これだけ身装《みなり》を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を覗《のぞ》くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼鈴《ベル》も今度は鳴らなかった。家中ひっそり閑《かん》としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠《もた》れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜《はす》に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は案《あん》の上《じょう》、「御出かけで」と挨拶《あいさつ》した。そうして例《いつも》の通り下女を呼んで下駄箱《げたばこ》にしまってある履物《はきもの》を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を掠《か》すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵《かな》わないと思って、いや宜《よろ》しいと云いながら、自分で下駄箱の垂《たれ》を上げて、早速靴を取りおろした。旨《うま》い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿《は》いてしまったんで、また上《あが》るのが面倒だから」
 敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到底《とても》弁じない用事なので、「はあようがす」と云って気《き》さくに立って梯子段《はしごだん》を上《のぼ》って行った。敬太郎はそのひまに例の洋杖《ステッキ》を傘入《かさいれ》から抽《ぬ》き取ったなり、抱《だ》き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った角《かど》を、右の腋《わき》の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から杖《つえ》を出して蛇《へび》の首をじっと眺《なが》めた。そうして袂《たもと》の手帛《ハンケチ》で上から下まで綺麗《きれい》に埃《ほこり》を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋《あご》を載《の》せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧《かえり》みて、ほっと一息|吐《つ》いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、偸《ぬす》むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人《ひと》のような、長いような短かいような、出るような這入《はい》るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携《たず》さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖《そで》に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間《ま》、瘧《ぎゃく》を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業《ごう》を煮やした先刻《さっき》の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作《しょさ》を紛《まぎ》らす為《ため》に、わざと洋杖を取り直して、電車の床《ゆか》をとんとんと軽く叩《たた》いた。
 やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間《ま》があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍《そば》から、真直《まっすぐ》に南へ走る大通りと、緩《ゆる》い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺《なが》めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。

二十五

 赤い郵便函《ポスト》から五六間東へ下《くだ》ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入《い》った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛《まぎ》れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標《めじるし》の鉄の柱を離れて、四辺《あたり》の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造《くらづくり》の瀬戸物屋があった。小さい盃《さかずき》のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄製《かねせい》の鳥籠《とりかご》に、陶器でできた餌壺《えつぼ》をいくつとなく外から括《くく》りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗《ひらしゃ》の縁《へり》を取ったのがこの店の重《おも》な装飾であった。敬太郎《けいたろう》は琥珀《こはく》に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟巻《えりまき》らしいものの先に、豆狸《まめだぬき》のような顔が付着しているのも滑稽《こっけい》に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪瑙《めのう》で刻《ほ》った透明な兎《うさぎ》だの、紫水晶《むらさきずいしょう》でできた角形《かくがた》の印材だの、翡翠《ひすい》の根懸《ねがけ》だの孔雀石《くじゃくせき》の緒締《おじめ》だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いた。
 敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工《からきざいく》の店先まで来た。その時|後《うしろ》から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違《すじかい》に通を横切って細い横町の角にある唐物屋《とうぶつや》の傍《そば》へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻《さっき》のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角《かど》に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋《まんせいばし》の方から真直《まっすぐ》に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念《けねん》もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向《むき》を更《か》えにかかった途端《とたん》に、南から来た一台がぐるりと美土代町《みとしろちょう》の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨《すがも》の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直《まっすぐ》に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻《さっき》彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後《あと》を跟《つ》けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当《けんとう》がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離《みちのり》を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束《おぼつか》ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終《おお》せる手際《てぎわ》を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住居《すま》っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊《うかつ》を深く後悔した。
 彼は困却の余りふと思いついた窮策《きゅうさく》として、須永《すなが》の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に逼《せま》っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘《つま》んで用事を呑《の》み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの間《ま》は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛《ハンケチ》を振るぐらいではちょっと通じかねる。紛《まぎ》れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛《とっぴ》なよほどな場合でも体裁《ていさい》を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆《か》けて行く間には、肝心《かんじん》の黒の中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。

二十六

 決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成効《せいこう》を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、向《むき》の具合か、それとも自分が始終|乗降《のりおり》に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だか向《むこう》で降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊躇《ちゅうちょ》していた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も降者《おりて》がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。敬太郎《けいたろう》は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然|馳《か》け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除《の》けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は硝子戸《ガラスど》の内へ半分|身体《からだ》を入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った拍子《ひょうし》に、敬太郎の持っていた洋杖《ステッキ》を蹴飛《けと》ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は直《すぐ》曲《こご》んで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時|蛇《へび》の頭が偶然|東向《ひがしむき》に倒れているのに気がついた。そうしてその頭の恰好《かっこう》を何となしに、方角を教える指標《フィンガーポスト》のように感じた。
「やっぱり東が好かろう」
 彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の敵《かたき》でも覘《ねら》うように怖《こわ》い眼つきで吟味《ぎんみ》した後《あと》、少し心に余裕《よゆう》ができるに連れて、腹の中がだんだん気丈《きじょう》になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚《みな》して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人《いちにん》は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴《シンボル》のごとく振り分ける分別盛《ふんべつざか》りの中年者《ちゅうねんもの》であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
 電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄《けんぺい》ずくで上から伸《の》しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男女《なんにょ》が聚《あつ》まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時《いっぷんじ》の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作《しょさ》に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻《さっき》の二時間を、充分|須永《すなが》と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥《はる》かに常識に適《かな》った遣口《やりくち》だと考え出した。彼がこの苦《にが》い気分を痛切に甞《な》めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼《あお》く沈んで来た。陰鬱《いんうつ》な冬の夕暮を補なう瓦斯《ガス》と電気の光がぽつぽつそこらの店硝子《みせガラス》を彩《いろ》どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪《ひさしがみ》に結《い》った一人の若い女が立っていた。電車の乗降《のりおり》が始まるたびに、彼は注意の余波《なごり》を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。

二十七

 女は年に合わして地味なコートを引き摺《ず》るように長く着ていた。敬太郎《けいたろう》は若い人の肉を飾る華麗《はなやか》な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦袢《じゅばん》の襟《えり》さえ羽二重《はぶたえ》の襟巻《えりまき》で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の逼《せま》るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲《まわり》に何といって他《ひと》の注意を惹《ひ》くものを着けていなかった。けれども時節柄《じせつがら》に頓着《とんじゃく》なく、当人の好尚《このみ》を示したこの一色《ひといろ》が、敬太郎には何よりも際立《きわだ》って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異《い》な物に出逢った感じよりも、煤《すす》けた往来に冴々《さえざえ》しい一点を認めた気分になって女の頸《くび》の辺《あたり》を注意した。女は敬太郎の視線を正面《まとも》に受けた時、心持|身体《からだ》の向《むき》を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢《びん》から洩《も》れた毛を後《うしろ》へ掻きやる風をした。固《もと》より女の髪は綺麗《きれい》に揃《そろ》っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実《み》のない科《しな》としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
 女は普通の日本の女性《にょしょう》のように絹の手袋を穿《は》めていなかった。きちりと合う山羊《やぎ》の革製ので、華奢《きゃしゃ》な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた蝋《ろう》を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺《しわ》も一分《いちぶ》の弛《たる》みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸《てくび》を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗降《のりおり》の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕《よゆう》ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間《あいま》相間には覚《さと》られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
 始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰《つぶ》されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺《こら》えた方が差引|得《とく》になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振《そぶり》を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘《かさ》を広げる人のように、わざと彼の観察を避《よ》ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨《むきだし》に女の方を見るのを慎《つつ》しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡《しゅんじゅん》する気色《けしき》もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子《まどガラス》に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚《えださんご》の置物だのを眺《なが》め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立《こういだて》をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
 女の容貌《ようぼう》は始めから大したものではなかった。真向《まむき》に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々《はればれ》しい心持のする眸《ひとみ》を有《も》っていた。宝石商の電灯は今|硝子越《ガラスごし》に彼女《かのおんな》の鼻と、豊《ふっ》くらした頬の一部分と額とを照らして、斜《はす》かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓《りんかく》を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好《かっこう》のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。

二十八

 電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎《けいたろう》の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更《いまさら》気がついたように、頭の上に被《かぶ》さる黒い空を仰いで、苦々《にがにが》しく舌打《したうち》をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他《ひと》を騙《だま》すためにわざわざ拵《こし》らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖《ステッキ》も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々《いまいま》しさの種になった。彼は暗い夜を欺《あざ》むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟《ひっきょう》自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚《さ》ましながらまだそのくらい寝惚《ねぼ》けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲《あざ》ける記念《かたみ》だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
 彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻《さっき》の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常《ひとなみ》より恰好《かっこう》よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹《ひ》いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃《そろ》った五本の指と、しなやかな革《かわ》で堅く括《くく》られた手頸《てくび》と、手頸の袖口《そでくち》の間から微《かす》かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所《ひとところ》に立ち尽すものに、寒さは辛《つら》く当った。女は心持ち顋《あご》を襟巻《えりまき》の中に埋《うず》めて、俯目勝《ふしめがち》にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣《めづかい》の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼《のみとりまなこ》で、黒の中折帽を被《かぶ》った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射《い》がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間|余《あまり》をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考《かんがえ》がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出《しで》かすか分らない人として何のために自分が覘《ねら》われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後《うしろ》を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚《はば》かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心《かんじん》の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いて、そこに飾ってある天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の着いた女の子のマントを眺《なが》める風をしながら、そっと後《うしろ》を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後《あと》から後から来る陰になって、白い襟巻《えりまき》も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少《もうすこ》し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇《ものずき》を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺《うかが》うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。

二十九

 その時|敬太郎《けいたろう》の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪《ひさしがみ》に結《い》っているので、その辺の区別は始めから不分明《ふぶんみょう》だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半《なかば》後《うしろ》になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲《おそ》って来た。
 見かけからいうとあるいは人に嫁《とつ》いだ経験がありそうにも思われる。しかし身体《からだ》の発育が尋常より遥《はる》かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服装《つくり》をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄《しまがら》について、何をいう権利も有《も》たない男だが、若い女ならこの陰鬱《いんうつ》な師走《しわす》の空気を跳《は》ね返すように、派出《はで》な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠《ばっ》とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性《しげきせい》の文《あや》をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹《ひ》くのは頸《くび》の周囲《まわり》を包む羽二重《はぶたえ》の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
 敬太郎は年に合わして余りに媚《こ》びる気分を失い過ぎたこの衣服《なり》を再び後《うしろ》から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大人《おとな》びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚《みな》し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初々《ういうい》しい羞恥《はにかみ》が、手帛《ハンケチ》に振りかけた香水の香《か》のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体《からだ》全体の運動となったり、眉《まゆ》や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻《さっき》目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾《と》くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強《し》いて動かすまいと力《つと》める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴《とも》なったものだと彼は勘定《かんてい》していた。
 ところが今|後《うしろ》から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨《うま》く調子が取れているように思われた。彼女《かのおんな》は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌《しの》ぎかねる風情《ふぜい》もなく、ほとんど閑雅《かんが》とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端《はじ》に立っていた。傍《そば》には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍《そば》へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退《の》いたので大いに安心したらしい彼女は、その中《うち》で最も熱心に何かを待ち受ける一人《いちにん》となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上《かみ》へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を楯《たて》に、巡査の立っている横から女の顔を覘《ねら》うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後姿《うしろすがた》を眺《なが》めて物陰にいた時は、彼女を包む一色《ひといろ》の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪《ひさしがみ》とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄《もて》あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々《いきいき》した一種|華《はな》やかな気色《きしょく》に充《み》ちて、それよりほかの表情は毫《ごう》も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
 やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩《ゆる》く廻転して来た。それが女のいる前で滑《すべ》るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提《さ》げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直《すぐ》に女の前に行って、そこに立ちどまった。

三十

 敬太郎《けいたろう》は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺《なが》めていたが、美くしい歯を露《む》き出しに現わして、潤沢《うるおい》の饒《ゆた》かな黒い大きな眼を、上下《うえした》の睫《まつげ》の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚《みと》れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折《なかおれ》が乗っているのに気がついた。外套《がいとう》は判切《はっきり》霜降《しもふり》とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸《ひとみ》に投げた。その上背は高かった。瘠《やせ》ぎすでもあった。ただ年齢《とし》の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度盛《どもり》の上において、自分とは遥《はる》か隔《へだ》たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇《ちゅうちょ》なく四十|恰好《がっこう》と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻《さっき》から馬鹿を尽してつけ覘《ねら》った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔《むか》しに過ぎたのに、妙な酔興《すいきょう》を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終《おお》せたのを幸運の一つに数えた。彼はこのX《エックス》という男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がY《ワイ》という女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
 男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色《けしき》もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を洩《も》らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨拶《あいさつ》の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を繋《つな》ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰《せ》く、慇懃《いんぎん》な男女間《なんにょかん》の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の縁《ふち》に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその鍔《つば》の下にあるべきはずの大きな黒子《ほくろ》を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任《でまか》せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、直《ただ》ちに彼の傍《そば》へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗《のぞ》き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱《いだ》いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑《けんぎ》の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打《う》ち毀《こわ》すと同じ結果になる。
 こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻《めぐ》って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の後《あと》を跟《つ》けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟《はさ》もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世故《せこ》に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊《たんぱく》に信じていた。
 やがて男は女を誘《いざ》なう風をした。女は笑いながらそれを拒《こば》むように見えた。しまいに半《なか》ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃《そろ》えて瀬戸物屋の軒端《のきば》近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を免《まぬ》かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意《わざ》とあらぬ方《かた》を見て歩いた。

三十一

「だって余《あん》まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
 敬太郎《けいたろう》の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞《ふさ》がりそうにした。敬太郎の方でも、後《うしろ》から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋《ばつ》が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍《そば》にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺《ガラスつぼ》の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套《がいとう》の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体《からだ》を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯《ひ》に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。妾《あたし》もう少しで帰《かい》るところよ」
「どうも御気の毒さま」
 二人はまた歩き出した。敬太郎も壺入《つぼいり》のビスケットを見棄ててその後《あと》に従がった。二人は淡路町《あわじちょう》まで来てそこから駿河台下《するがだいした》へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門口《かどぐち》から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家《うち》へ入《は》いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝亭《たからてい》と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入《でいり》をする家《うち》であった。近頃|普請《ふしん》をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝《さら》して、斜《はす》かけに立ち切られたような棟《むね》を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒《ビール》の広告写真を仰ぎながら、肉刀《ナイフ》と肉叉《フォーク》を凄《すさ》まじく闘かわした数度《すど》の記憶さえ有《も》っていた。
 二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫《むらさき》がかった空気の匂う迷路《メーズ》の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗《あん》に働らいてこれまで後を跟《つ》けて来た敬太郎には、馬鈴薯《じゃがいも》や牛肉を揚げる油の臭《におい》が、台所からぷんぷん往来へ溢《あふ》れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥《はる》かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚《さと》った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟《しげき》された食慾を充《み》たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後《あと》を追ってそこの二階へ上《のぼ》ろうとしたが、電灯の強く往来へ射《さ》す門口《かどぐち》まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味《まず》い。ひょっとするとこの人は自分を跟《つ》けて来たのだという疑惑を故意《ことさら》先方に与える訳になる。
 敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路《こうじ》を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体《からだ》の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその門《かど》を潜《くぐ》った。時々来た事があるので、彼はこの家《うち》の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上《あが》って右の奥か、左の横にある広間を覗《のぞ》けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室《へや》まで開《あ》けてやろうぐらいの考で、階段《はしごだん》を上りかけると、白服の給仕《ボーイ》が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。

三十二

 敬太郎《けいたろう》は手に持った洋杖《ステッキ》をそのままに段々を上《のぼ》り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。彼は給仕の後《うしろ》から自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。するとそこに先刻《さっき》注意した黒の中折帽《なかおれぼう》が掛っていた。霜降《しもふり》らしい外套《がいとう》も、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。給仕がその裾《すそ》を動かして、竹の洋杖を突込《つっこ》んだ時、大きな模様を抜いた羽二重《はぶたえ》の裏が敬太郎の眼にちらついた。彼は蛇《へび》の頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位を崩《くず》す恐《おそれ》があるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿を眺《なが》めながら、ひとまず安堵《あんど》の思いをした。女は彼の推察通りはたして後《うしろ》を向かなかった。彼はその間《ま》に女の坐っているすぐ傍《そば》まで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。その時男は顔を上げて、まだ腰もかけず向《むき》も改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいた鉢《はち》に植えた松と梅の盆栽《ぼんさい》が飾りつけてあった。彼の前にはスープの皿があった。彼はその中に大きな匙《さじ》を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間に横《よこた》わる六尺に足らない距離は明らかな電灯が隈《くま》なく照らしていた。卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、潔《いさ》ぎいい光を四方の食卓《テーブル》から反射していた。敬太郎はこういう都合のいい条件の具備した室《へや》で、男の顔を満足するまで見た。そうしてその顔の眉《まゆ》と眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな黒子《ほくろ》を認めた。
 この黒子《ほくろ》を別にして、男の容貌《ようぼう》にこれと云った特異な点はなかった。眼も鼻も口も全く人並であった。けれども離れ離れに見ると凡庸《ぼんよう》な道具が揃《そろ》って、面長《おもなが》な顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。敬太郎と顔を合せた時、スープの中に匙《さじ》を入れたまま、啜《すす》る手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采《ふうさい》態度《たいど》と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に有《も》っていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの宵《よい》の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな性質《たち》の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭《パン》に手も触《ふ》れずにいた。男と女は彼らの傍《そば》に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの間《ま》話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違《たがいちがい》に敬太郎の耳に入《い》った。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。妾《あたし》ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他《ひと》を待たした癖に」
 女は少し拗《す》ねたような物の云い方をした。男は四辺《あたり》に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直《じき》じゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇《ちゅうちょ》している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心《かんじん》な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。

三十三

 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎《けいたろう》は自分の前に残された皿の上の肉刀《ナイフ》と、その傍に転がった赤い仁参《にんじん》の一切《ひときれ》を眺《なが》めていた。女はなお男を強《し》いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃《のが》れていた。しかし相手を怒《おこ》らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆《あおえんどう》が運ばれる時分には、女もとうとう我《が》を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減《いいかげん》に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会《はずみ》に小耳に挟《はさ》んでおきたかったが、いよいよ話が纏《まと》まらないとなると、男女《なんにょ》の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
 敬太郎はちょっと振り向いて後《うしろ》が見たくなった。その時|階段《はしごだん》を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上《あが》って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿《は》いた軍人であった。そうして床《ゆか》の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の室《へや》へ案内された。この物音が例の男と女の会話を攪《か》き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
 男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊《たんぱく》に自分の欲しいというものの名を判切《はっきり》云ってくれないかを恨《うら》んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度《こんだ》でいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッ嬉《うれ》しい」
 敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎《つつ》しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上《あが》り口《くち》の方から、給仕《ボーイ》が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更《か》えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「妾《あたし》もうたくさん」
 女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと逼《せま》ったのは珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》か何からしい。男はこういう事に精通しているという口調《くちょう》で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家《こうずか》の嬉《うれ》しがる知識に過ぎなかった。練物《ねりもの》で作ったのへ指先の紋《もん》を押しつけたりして、時々|旨《うま》くごまかした贋物《がんぶつ》があるが、それは手障《てざわ》りがどこかざらざらするから、本当の古渡《こわた》りとは直《すぐ》区別できるなどと叮嚀《ていねい》に女に教えていた。敬太郎は前後《あとさき》を綜合《すべあ》わして、何でもよほど貴《たっ》とい、また大変珍らしい、今時そう容易《たやす》くは手に入らない時代のついた珠《たま》を、女が男から貰《もら》う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何《なん》にする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」

三十四

 しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物《くだもの》にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎《けいたろう》に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た後《あと》の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。後《おく》れて席を立つにしても、巻煙草《まきたばこ》を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓《ざっとう》と暗闇《くらやみ》の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで後《あと》から喰付《くっつ》いて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに若《し》くはないという気になって、早速|給仕《ボーイ》を呼んでビルを請求した。
 男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換《とりやり》も始まる機会《おり》はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられた眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》なども偶然女の口に上《のぼ》った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所《とこ》にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
 敬太郎はこの時|指洗椀《フィンガーボール》の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛《こめかみ》を隠すように抑《おさ》えながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻《さっき》給仕に預けた洋杖《ステッキ》を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに室《へや》の隅《すみ》に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾《すそ》に隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女《なんにょ》を憚《はば》かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重《はぶたえ》の裏と、柔かい外套《がいとう》の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻《きざ》み足《あし》に下へ駆《か》け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後《うしろ》にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って連雀町《れんじゃくちょう》の方へ抜けようが、あるいは門《かど》からすぐ小路《こうじ》伝いに駿河台下《するがだいした》へ向おうが、どっちへ行こうと見逃《みのが》す気遣《きづかい》はないと彼は心丈夫に洋杖《ステッキ》を突いて、目指す家の門口《かどぐち》を見守っていた。
 彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点《しょうてん》になる光の中《うち》に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階を眺《なが》めてその窓だけ明るくなった奥を覗《のぞ》くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち草臥《くたび》れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに欺《あざ》むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻《さっき》から寒そうな雨を醸《かも》していたらしく、敬太郎の心を佗《わ》びしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心《かんじん》の相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。

三十五

 彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔《くや》んだ。けれども二人が彼に気兼《きがね》をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据《す》えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐《すわ》ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の廂《ひさし》へ雨が二雫《ふたしずく》ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向《あおむ》いて黒い空を眺めた。闇《やみ》よりほかに何も眼を遮《さえ》ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は頬《ほお》の上に一滴《いってき》の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好《かっこう》さえ分らない大きな暗いものを見つめている間《あいだ》に、今にも降り出すだろうという掛念《けねん》をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似《まね》を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖《ステッキ》にあるような気がした。彼は例のごとく蛇《へび》の頭を握って、寒さに対する欝憤《うっぷん》を晴らすごとくに、二三度それを烈《はげ》しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が揃《そろ》って洋食店の門口を出た。敬太郎《けいたろう》は何より先に女の細長い頸《くび》を包む白い襟巻《えりまき》に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予《ゆうよ》なく向うへ渡った。彼らは緩《ゆる》い歩調で、賑《にぎ》やかに飾った店先を軒《のき》ごとに覗《のぞ》くように足を運ばした。後《うしろ》から跟《つ》いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は香《か》の高い葉巻を銜《くわ》えて、行く行く夜の中へ微《かす》かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で後《うしろ》から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵《おか》した。彼はその香《にお》いを嗅《か》ぎ嗅ぎ鈍《のろ》い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので後《うしろ》から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少|錯覚《さっかく》を助けた。すると聯想《れんそう》がたちまち伴侶《つれ》の方に移って、女が旦那《だんな》から買って貰《もら》った革《かわ》の手袋を穿《は》めている洋妾《らしゃめん》のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似《まね》た。すると二人はまた美土代町《みとしろちょう》の角《かど》をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍《そば》へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧《かえり》みた。固《もと》より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔《つば》をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫《な》でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当《けんとう》を眺《なが》めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗《わ》びた。
 間《ま》もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後《あと》から這入《はい》って、嫌疑《けんぎ》を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾《すそ》を踏まえないばかりに引き摺《ず》って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直《すぐ》続くと思った男は、案外|上《あが》る気色《けしき》もなく、足を揃《そろ》えたまま、両手を外套《がいとう》の隠袋《かくし》に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託《いたく》されたのは女と関係のない黒い中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。

三十六

 女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入《はい》ってしまった。冬の夜《よ》の事だから、窓硝子《まどガラス》はことごとく締《し》め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌《あいきょう》も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶《あいさつ》の交換《やりとり》がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方《かた》へ運び去った。男はこの時口に銜《くわ》えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋《とうぶつや》の前でとまった。そこは敬太郎《けいたろう》が人に突き当られて、竹の洋杖《ステッキ》を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の後《あと》を見え隠れにここまで跟《つ》いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある新柄《しんがら》の襟飾《ネクタイ》だの、絹帽《シルクハット》だの、変《かわ》り縞《じま》の膝掛《ひざかけ》だのを覗《のぞ》き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も覚《さ》めるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽《あき》が来たと云ってはすまないが、前《ぜん》同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
 そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや否《いな》や瘠《や》せた身体《からだ》を体《てい》よくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇《ちゅうちょ》していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今|坐《すわ》ったばかりの中折の男のも交《まじ》っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ覘《ねら》われているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を択《よ》って腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺《うか》がった。男は始終《しじゅう》隠袋《かくし》へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが膝《ひざ》の上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪《みにく》い外を透《す》かすように眺《なが》めた。やがて電車の走る響の中に、窓硝子《まどガラス》にあたって摧《くだ》ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼は携《たずさ》えている竹の洋杖《ステッキ》を眺めて、この代りに雨傘《あまがさ》を持って来ればよかったと思い出した。
 彼は洋食店以後、中折を被《かぶ》った男の人柄《ひとがら》と、世の中にまるで疑《うたがい》をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨《むきだし》にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更|遅蒔《おそまき》のようでも、まだ気が利《き》いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法《べんぽう》を工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を襲《おそ》った。中折の男は困ったなと云いながら、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて洋袴《ズボン》の裾《すそ》を返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、直《すぐ》寄って来る俥引《くるまひき》を捕《つら》まえた。敬太郎も後《おく》れないように一台雇った。車夫は梶棒《かじぼう》を上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車の後《あと》について行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみに馳《か》け出した。一筋道を矢来《やらい》の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくら幌《ほろ》の内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。

報告 一

 眼が覚《さ》めると、自分の住み慣《な》れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎《けいたろう》には全く変に思われた。昨日《きのう》の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏《まと》まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充《み》ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋《かわや》も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉《まゆ》の間に黒子《ほくろ》のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚《さんご》の珠《たま》も、みんな陶然《とうぜん》とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充《み》ちて活躍したものは竹の洋杖《ステッキ》であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌《ほろ》を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切《ひとくぎり》として、ほとんど狐から取り憑《つ》かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯《ひ》で佗《わ》びしく照らされたびしょ濡《ぬ》れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒《かじぼう》を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
 彼は寝ながら天井《てんじょう》を眺《なが》めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔《ふつかよい》の眼と頭をもって、蚕《かいこ》の糸を吐《は》くようにそれからそれへと出てくるこの記念《かたみ》の画《え》を飽《あ》かず見つめていたが、しまいには眼先に漂《ただ》ようふわふわした夢の蒼蠅《うるさ》さに堪《た》えなくなった。それでも後《あと》から後からと向うで独《ひと》り勝手《がって》に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯《かんれん》して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌《ようぼう》は固《もと》より服装《なり》から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切《はっき》りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮《あざ》やかな色と形を備えて眸《ひとみ》を侵《おか》して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕《ゆうべ》法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口《かどぐち》を潜《くぐ》った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室《へや》まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚《とだな》の奥の行李《こうり》の後《うしろ》へ投げ込んでしまったのである。
 今朝《けさ》は蛇《へび》の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵《よい》へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏《まと》める段になると、自分の引き受けた仕事は成効《せいこう》しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖《ステッキ》の御蔭《おかげ》を蒙《こうむ》っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着《よぎ》を剥《は》ぐって跳《は》ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日《きのう》の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室《へや》に上《のぼ》った。そこの窓を潔《いさ》ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟《しげき》した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力《つと》めて実際的に思慮を回《めぐ》らした。

 突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎《けいたろう》は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急《せ》くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直《すぐ》行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後《あと》で、差支《さしつかえ》ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予《ゆうよ》なく内幸町へ出かけた。
 田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄《げた》が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物《かけもの》が二幅掛かっていた。湯呑《ゆのみ》のような深い茶碗《ちゃわん》に、書生が番茶を一杯|汲《く》んで出した。桐《きり》を刳《く》った手焙《てあぶり》も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団《ざぶとん》も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏《かしこ》まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物《かけもの》の価額《ねだん》を想像したり、手焙の縁《ふち》を撫《な》で廻したり、あるいは袴《はかま》の膝《ひざ》へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲《まわり》があまり綺麗《きれい》に調《ととの》っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚《ちがいだな》の上にある画帖《がじょう》らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断《ことわ》るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
 こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後《あと》で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
 敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶《あいさつ》を一と口と、それに添えた叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》を一つした。それからすぐ昨日《きのう》の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体《からだ》も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕《よゆう》の貯蔵庫でもあるように、けっして周章《あわて》て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極《しごく》面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗《あん》に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳《わけ》はまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日《きのう》は。旨《うま》く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他《ひと》を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠《くちごも》った後《あと》、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間《みけん》に黒子《ほくろ》がありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服《なり》もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折《なかおれ》に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後《おく》れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過《すぎ》のようでした」
「よっぽど過《すぎ》。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
 今まで穏《おだ》やかに機嫌《きげん》よく話していた長者《ちょうしゃ》から突然こう手厳《てきび》しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。