敬太郎《けいたろう》は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺《なが》めていたが、美くしい歯を露《む》き出しに現わして、潤沢《うるおい》の饒《ゆた》かな黒い大きな眼を、上下《うえした》の睫《まつげ》の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚《みと》れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折《なかおれ》が乗っているのに気がついた。外套《がいとう》は判切《はっきり》霜降《しもふり》とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸《ひとみ》に投げた。その上背は高かった。瘠《やせ》ぎすでもあった。ただ年齢《とし》の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度盛《どもり》の上において、自分とは遥《はる》か隔《へだ》たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇《ちゅうちょ》なく四十|恰好《がっこう》と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻《さっき》から馬鹿を尽してつけ覘《ねら》った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔《むか》しに過ぎたのに、妙な酔興《すいきょう》を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終《おお》せたのを幸運の一つに数えた。彼はこのX《エックス》という男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がY《ワイ》という女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色《けしき》もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を洩《も》らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨拶《あいさつ》の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を繋《つな》ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰《せ》く、慇懃《いんぎん》な男女間《なんにょかん》の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の縁《ふち》に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその鍔《つば》の下にあるべきはずの大きな黒子《ほくろ》を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任《でまか》せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、直《ただ》ちに彼の傍《そば》へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗《のぞ》き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱《いだ》いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑《けんぎ》の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打《う》ち毀《こわ》すと同じ結果になる。
こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻《めぐ》って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の後《あと》を跟《つ》けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟《はさ》もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世故《せこ》に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊《たんぱく》に信じていた。
やがて男は女を誘《いざ》なう風をした。女は笑いながらそれを拒《こば》むように見えた。しまいに半《なか》ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃《そろ》えて瀬戸物屋の軒端《のきば》近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を免《まぬ》かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意《わざ》とあらぬ方《かた》を見て歩いた。
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