2008年11月19日水曜日

二十二

 田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下《もと》で、乗降《のりおり》に忙がしい多数の客の中《うち》から、指定された局部の一点を目標《めじるし》に、これだと思う男を過《あやま》ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退《ひ》ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数《かず》だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先《みせさき》に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具《そな》えるやらして、電灯以外の景気を点《つ》けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定《かんじょう》に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際《てぎわ》ではという覚束《おぼつか》ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降《しもふり》の外套《がいとう》に黒の中折《なかおれ》という服装《いでたち》で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷《いちる》の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好《かっこう》にしろ手がかりになり様《よう》はずがないが、黒の中折を被《かぶ》っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日《こんにち》だから、すぐ眼につくだろう。それを目宛《めあて》に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
 こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺《なが》めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向《むこう》へ着くとしたところで、三時頃から宅《うち》を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予《ゆうよ》がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町《みとしろちょう》と小川町が、丁字《ていじ》になって交叉している三つ角の雑沓《ざっとう》が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘《いざな》うに足る上分別《じょうふんべつ》は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念《けねん》が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁《ふち》に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端《とたん》に、この間浅草で占《うら》ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎《なぞ》として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出《ひきだし》に入れておいた。でまたその紙片《かみぎれ》を取り出して、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなという句を飽《あ》かず眺《なが》めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有《も》ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲《まわり》の物から、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなものを探《さが》しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎《なぞ》を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
 ところがまず眼の前の机、書物、手拭《てぬぐい》、座蒲団《ざぶとん》から順々に進行して行李《こうり》鞄《かばん》靴下《くつした》までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥《いらだ》つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室《へや》の中を駆《か》け廻《めぐ》って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着た黒の中折を被《かぶ》った背の高い瘠《やせ》ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具《そな》えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯《ひげ》を生《は》やした森本の容貌《ようぼう》を想像の眼で眺《なが》めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。

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