2008年11月19日水曜日

二十

 電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今|直《すぐ》来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎《けいたろう》はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌《あいきょう》が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永《すなが》君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数《てかず》だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込《ひっこ》んでしまった。敬太郎はまた例の袴《はかま》を穿《は》きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折《なかおれ》を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲《みな》ぎらして快豁《かいかつ》に表へ出た。外には白い霜《しも》を一度に摧《くだ》いた日が、木枯《こがら》しにも吹き捲《ま》くられずに、穏《おだ》やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切《つっき》る電車の上で、光を割《さ》いて進むような感じがした。
 田口の玄関はこの間と違って蕭条《ひっそ》りしていた。取次《とりつぎ》に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀《ていねい》に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入《はい》ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃《そろ》えてくれた上靴《スリッパー》を穿《は》いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜《けんそん》から、彼は腰の高い肱懸《ひじかけ》も装飾もつかない最も軽そうなのを択《よ》って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
 やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶《あいさつ》やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶《あいさつ》した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰《てもちぶさた》と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入《まきたばこいれ》から敷島《しきしま》を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有《も》っています」
 田口は笑い出した。そうして機嫌《きげん》の好い顔つきをして、学士の数《かず》のこんなに殖《ふ》えて来た今日《こんにち》、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇《ねん》ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃《のが》れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直《すぐ》という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家《おうち》の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事《わたくしごと》にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。

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