2008年11月18日火曜日

須永の話 一

 敬太郎《けいたろう》は須永《すなが》の門前で後姿《うしろすがた》の女を見て以来、この二人を結びつける縁《えん》の糸を常に想像した。その糸には一種夢のような匂《におい》があるので、二人を眼の前に、須永としまた千代子として眺《なが》める時には、かえってどこかへ消えてしまう事が多かった。けれども彼らが普通の人間として敬太郎の肉眼に現実の刺戟《しげき》を与えない折々には、失なわれた糸がまた二人の中を離すべからざる因果《いんが》のごとくに繋《つな》いだ。田口の家《うち》へ出入《でいり》するようになってからも、須永と千代子の関係については、一口《ひとくち》でさえ誰からも聞いた事はなし、また二人の様子を直《じか》に観察しても尋常の従兄弟《いとこ》以上に何物も仄《ほの》めいていなかったには違ないが、こういう当初からの聯想《れんそう》に支配されて、彼の頭のどこかに、二人を常に一対《いっつい》の男女《なんにょ》として認める傾きを有《も》っていた。女の連添《つれそ》わない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を損《そこ》なった片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼らを頭のうちでかように組み合わせたのは、まだ片輪の境遇にまごついている二人に、自然が生みつけた通りの資格を早く与えてやりたいという道義心の要求から起ったのかも知れなかった。
 それはこむずかしい理窟《りくつ》だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を捻《ひね》ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の佐伯《さえき》から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の纏《まと》まらない先から、奥の委《くわ》しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ漠然《ばくぜん》とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも明瞭《めいりょう》な答はでき悪《にく》いんですが、ちょっと考えて見てもむずかしそうですね」
「そうかね、僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ」
「知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから」
 敬太郎は佐伯の云わゆる「複雑な事情」なるものを根掘り葉掘り聞きたくなったが、何だか自分を門外漢扱いにするような彼の言葉が癪《しゃく》に障《さわ》るのと、たかが玄関番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云われては自分の品格にかかわるのと、最後には、口ほど詳しい事情を佐伯が知っている気遣《きづかい》がないのとで、それぎりその話はやめにした。そのおりついでながら奥へ行って細君に挨拶《あいさつ》をしてしばらく話したが、別に平生と何の変る様子もないので、おめでとうございますと云う勇気も出なかった。
 これは敬太郎が須永の宅《うち》で矢来《やらい》の叔父さんの家《うち》にあった不幸を千代子から聞いたつい二三日前の事であった。その日彼が久しぶりに須永を訪問したのも、実はその結婚問題について須永の考えを確かめるつもりであった。須永がどこの何人《なんびと》と結婚しようと、千代子がどこの何人に片づこうと、それは敬太郎の関係するところではなかったが、この二人の運命が、それほど容易《たやす》く右左へ未練なく離れ離れになり得るものか、または自分の想像した通り幻《まぼろ》しに似た糸のようなものが、二人にも見えない縁となって、彼らを冥々《めいめい》のうちに繋《つな》ぎ合せているものか。それともこの夢で織った帯とでも形容して然《しか》るべきちらちらするものが、ある時は二人の眼に明らかに見え、ある時は全たく切れて、彼らをばらばらに孤立させるものか、――そこいらが敬太郎には知りたかったのである。固《もと》よりそれは単なる物数奇《ものずき》に過ぎなかった。彼は明らかにそうだと自覚していた。けれども須永に対してなら、この物数奇を満足させても無礼に当らない事も自覚していた。そればかりかこの物数奇を満足させる権利があるとまで信じていた。

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