2008年11月18日火曜日

 宵子《よいこ》はうとうと寝入《ねい》った人のように眼を半分閉じて口を半分|開《あ》けたまま千代子の膝《ひざ》の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度|叩《たた》いたが、何の効目《ききめ》もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
 母は驚ろいて箸《はし》と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入《はい》って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向《あおむけ》にして見ると、唇《くちびる》にもう薄く紫の色が注《さ》していた。口へ掌《てのひら》を当てがっても、呼息《いき》の通う音はしなかった。母は呼吸《こきゅう》の塞《つま》ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭《ぬれてぬぐい》を持って来さした。それを宵子の額に載《の》せた時、「脈《みゃく》はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸《てくび》を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼《あお》い顔をして泣き出した。母は茫然《ぼうぜん》とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人《よつたり》とも客間の方へ馳《か》け出した。その足音が廊下の端《はずれ》で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽《お》い被《かぶ》さるように細君と千代子の上から宵子を覗《のぞ》き込んだが、一目見ると急に眉《まゆ》を寄せた。
「医者は……」
 医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能《ききめ》もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇《くちびる》を洩《も》れた。そうして絶望を怖《おそ》れる怪しい光に充《み》ちた三人の眼が一度に医者の上に据《す》えられた。鏡を出して瞳孔《どうこう》を眺めていた医者は、この時宵子の裾《すそ》を捲《まく》って肛門《こうもん》を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
 医者はこう云ったがまた一筒《いっとう》の注射を心臓部に試みた。固《もと》よりそれは何の手段にもならなかった。松本は透《す》き徹《とお》るような娘の肌に針の突き刺される時、自《おのず》から眉間《みけん》を険《けわ》しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯《からしゆ》でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡《しろうとりょうけん》で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫《ごう》も奨励《しょうれい》の色が出なかった。
 やがて熱い湯を盥《たらい》へ汲《く》んで、湯気の濛々《もうもう》と立つ真中へ辛子《からし》を一袋|空《あ》けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り除《の》けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水《うめ》ましょう。余り熱いと火傷《やけど》でもなさるといけませんから」と注意した。
 医者の手に抱《だ》き取られた宵子は、湯の中に五六分|浸《つ》けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。余《あん》まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を盥《たらい》から出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧《ていねい》に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と恨《うら》めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
 小《ち》さい蒲団《ふとん》と小さい枕がやがて宵子のために戸棚《とだな》から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を眺《なが》めた千代子は、わっと云って突伏《つっぷ》した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫《た》べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
 千代子は途切《とぎ》れ途切れの言葉で、先刻《さっき》自分が夕飯《ゆうめし》の世話をしていた時の、平生《ふだん》と異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙《おせん》、ここへ寝かしておくのは可哀《かわい》そうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君を促《うな》がした。千代子も手を貸した。

0 件のコメント: