2008年11月19日水曜日

 敬太郎《けいたろう》が留桶《とめおけ》の前へ腰をおろして、三助《さんすけ》に垢擦《あかすり》を掛けさせている時分になって、森本はやっと煙《けむ》の出るような赤い身体《からだ》を全く湯の中から露出した。そうして、ああ好い心持だという顔つきで、流しの上へぺたりと胡坐《あぐら》をかいたと思うと、
「あなたは好い体格だね」と云って敬太郎の肉付《にくづき》を賞《ほ》め出した。
「これで近頃はだいぶ悪くなった方です」
「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
 森本は自分で自分の腹をポンポン叩《たた》いて見せた。その腹は凹《へこ》んで背中の方へ引《ひっ》つけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体は毀《こわ》す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕も閑《ひま》だから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、活溌《かっぱつ》なのはただ返事だけで、挙動の方は緩慢《かんまん》というよりも、すべての筋肉が湯に※[#「火+蝶のつくり」、第3水準1-87-56]《う》でられた結果、当分|作用《はたらき》を中止している姿であった。
 敬太郎が石鹸《シャボン》を塗《つ》けた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股を擦《こす》ったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う気色《けしき》は見えなかった。最後に瘠《や》せた一塊《ひとかたまり》の肉団をどぶりと湯の中に抛《ほう》り込むように浸《つ》けて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると綺麗《きれい》で好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に這入《はい》るんだからことにそうだろう。実用のための入湯《にゅうとう》でなくって、快感を貪《むさ》ぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫《おっくう》でね。ついぼんやり浸《つか》ってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉《まめ》だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負《おまけ》に楊枝《ようじ》まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
 二人は連立って湯屋の門口《かどぐち》を出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。昨夕《ゆうべ》の雨が土を潤《ふや》かし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上《けあ》げたりした泥の痕《あと》を、二人は厭《いと》うような軽蔑《けいべつ》するような様子で歩いた。日は高く上《のぼ》っているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだに微《かす》かな波動を地平線の上に描《えが》いているらしい感じがした。
「今朝の景色《けしき》は寝坊《ねぼう》のあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってる癖《くせ》に靄《もや》がいっぱいなんでしょう。電車をこっちから透《す》かして見ると、乗客がまるで障子《しょうじ》に映る影画《かげえ》のように、はっきり一人《ひとり》一人見分けられるんです。それでいて御天道様《おてんとさま》が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入《はい》って巻紙と状袋で膨《ふく》らました懐《ふところ》をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴《スリッパー》の踵《かかと》を鳴らして階段《はしごだん》を二つ上《のぼ》り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本を誘《いざな》った。森本は、
「もう直《じき》午飯《ひる》でしょう」と云ったが、躊躇《ちゅうちょ》すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作《むぞうさ》な態度で、敬太郎の後に跟《つ》いて来た。そうして、
「あなたの室《へや》から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付《てすりつき》の縁板の上へ濡手拭《ぬれてぬぐい》を置いた。

0 件のコメント: