2008年11月19日水曜日

 それでも田口は別段|厭《いや》な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋《つな》ぎの言葉を、時々|敬太郎《けいたろう》のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
 田口のこの挨拶《あいさつ》の中《うち》に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌《あいきょう》が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻《か》かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味《たるみ》のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折《なかおれ》を被《かぶ》って、襟開《えりあき》の広い霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着[#「着」は底本では「来」]た男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣《ことばづか》いといい歩きつきといい、何から何まで判切《はっきり》見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
 性質なら敬太郎にもほぼ見当《けんとう》がついていた。「穏《おだ》やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
 こう云った時、田口の唇《くちびる》の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞《ふさ》いでしまった。
「若い女には誰でも優《やさ》しいものですよ。あなただって満更《まんざら》経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍《はた》で自分を見たらさぞ気の利《き》かない愚物《ぐぶつ》になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪《にく》いです」と答えてしまった。
「素人《しろうと》だか黒人《くろうと》だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革《かわ》の手袋だの、白い襟巻《えりまき》だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括《すべくく》ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿《は》めていましたが……」
 女の身に着けた品物の中《うち》で、特に敬太郎の注意を惹《ひ》いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目《まじめ》な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻《さっき》自分の報告が滞《とどこお》りなく済んだ証拠《しょうこ》に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後《あと》で、こう難問が続発しようとは毫《ごう》も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競《せ》り上《あが》って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟《きょうだい》だとか、またはただの友達だとか、情婦《いろ》だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」

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