2008年11月19日水曜日

二十七

 女は年に合わして地味なコートを引き摺《ず》るように長く着ていた。敬太郎《けいたろう》は若い人の肉を飾る華麗《はなやか》な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦袢《じゅばん》の襟《えり》さえ羽二重《はぶたえ》の襟巻《えりまき》で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の逼《せま》るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲《まわり》に何といって他《ひと》の注意を惹《ひ》くものを着けていなかった。けれども時節柄《じせつがら》に頓着《とんじゃく》なく、当人の好尚《このみ》を示したこの一色《ひといろ》が、敬太郎には何よりも際立《きわだ》って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異《い》な物に出逢った感じよりも、煤《すす》けた往来に冴々《さえざえ》しい一点を認めた気分になって女の頸《くび》の辺《あたり》を注意した。女は敬太郎の視線を正面《まとも》に受けた時、心持|身体《からだ》の向《むき》を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢《びん》から洩《も》れた毛を後《うしろ》へ掻きやる風をした。固《もと》より女の髪は綺麗《きれい》に揃《そろ》っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実《み》のない科《しな》としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
 女は普通の日本の女性《にょしょう》のように絹の手袋を穿《は》めていなかった。きちりと合う山羊《やぎ》の革製ので、華奢《きゃしゃ》な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた蝋《ろう》を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺《しわ》も一分《いちぶ》の弛《たる》みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸《てくび》を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗降《のりおり》の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕《よゆう》ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間《あいま》相間には覚《さと》られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
 始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰《つぶ》されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺《こら》えた方が差引|得《とく》になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振《そぶり》を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘《かさ》を広げる人のように、わざと彼の観察を避《よ》ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨《むきだし》に女の方を見るのを慎《つつ》しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡《しゅんじゅん》する気色《けしき》もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子《まどガラス》に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚《えださんご》の置物だのを眺《なが》め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立《こういだて》をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
 女の容貌《ようぼう》は始めから大したものではなかった。真向《まむき》に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々《はればれ》しい心持のする眸《ひとみ》を有《も》っていた。宝石商の電灯は今|硝子越《ガラスごし》に彼女《かのおんな》の鼻と、豊《ふっ》くらした頬の一部分と額とを照らして、斜《はす》かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓《りんかく》を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好《かっこう》のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。

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