2008年11月19日水曜日

二十八

 電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎《けいたろう》の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更《いまさら》気がついたように、頭の上に被《かぶ》さる黒い空を仰いで、苦々《にがにが》しく舌打《したうち》をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他《ひと》を騙《だま》すためにわざわざ拵《こし》らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖《ステッキ》も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々《いまいま》しさの種になった。彼は暗い夜を欺《あざ》むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟《ひっきょう》自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚《さ》ましながらまだそのくらい寝惚《ねぼ》けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲《あざ》ける記念《かたみ》だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
 彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻《さっき》の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常《ひとなみ》より恰好《かっこう》よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹《ひ》いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃《そろ》った五本の指と、しなやかな革《かわ》で堅く括《くく》られた手頸《てくび》と、手頸の袖口《そでくち》の間から微《かす》かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所《ひとところ》に立ち尽すものに、寒さは辛《つら》く当った。女は心持ち顋《あご》を襟巻《えりまき》の中に埋《うず》めて、俯目勝《ふしめがち》にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣《めづかい》の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼《のみとりまなこ》で、黒の中折帽を被《かぶ》った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射《い》がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間|余《あまり》をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考《かんがえ》がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出《しで》かすか分らない人として何のために自分が覘《ねら》われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後《うしろ》を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚《はば》かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心《かんじん》の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いて、そこに飾ってある天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の着いた女の子のマントを眺《なが》める風をしながら、そっと後《うしろ》を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後《あと》から後から来る陰になって、白い襟巻《えりまき》も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少《もうすこ》し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇《ものずき》を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺《うかが》うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。

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