2008年11月19日水曜日

十八

 婆さんはしばらく手を膝《ひざ》の上に載《の》せて、何事も云わずに古い銭《ぜに》の面《おもて》をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快《はっきり》纏《まと》まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎《けいたろう》の顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出《おで》になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終《すえしじゅう》御為《おため》ですから」
 婆さんは一区限《ひとくぎり》つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を窺《うかが》った。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌《しゃべ》らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言《いちげん》に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟《しげき》に応じて見たくなった。
「進んでも失敗《しくじ》るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
 これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意《わざ》とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最《もう》少し先まで御出《おで》なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
 こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込《ひっこ》む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
 婆さんはまた黙って文銭《ぶんせん》の上を眺《なが》めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同《おん》なじですね」と答えた。そうして先刻《さっき》裁縫《しごと》をしていた時に散らばした糸屑《いとくず》を拾って、その中から紺《こん》と赤の絹糸のかなり長いのを択《よ》り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗《きれい》に縒《よ》り始めた。敬太郎はただ手持無沙汰《てもちぶさた》の徒事《いたずら》とばかり思って、別段意にも留《とど》めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒《よ》り上げて、文銭の上に載《の》せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手《はで》な赤と地味な紺《こん》が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆《か》け出してやり損《そこ》ない勝《がち》のものですが、あなたのは今のところこの縒糸《よりいと》みたように丁度《ちょうど》好い具合に、いっしょに絡《から》まり合っているようですから御仕合せです」
 絹糸の喩《たとえ》は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉《うれ》しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道《じみち》を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑《の》み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言《いちごん》で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切《せつ》に思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔《へだ》たった別世界の消息なら、固《もと》より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利《き》く点もあるので、敬太郎はそこに微《かす》かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損《そこ》ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」

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