2008年11月18日火曜日

 そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華《はな》やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴《ともえ》の紋《もん》のついた陣太鼓《じんだいこ》のようなものを持って来て、宵子《よいこ》さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着《きんちゃく》のような恰好《かっこう》をした赤い毛織の足袋《たび》が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐《ひも》の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編《あ》んでやったのだったね」
「ええ可愛《かわい》らしいわね」
 千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主《からぼうず》になった梧桐《ごとう》をしたたか濡《ぬ》らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越《ガラスごし》の雨の色を眺めて、手焙《てあぶり》に手を翳《かざ》した。
「芭蕉《ばしょう》があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花《さざんか》が散って、青桐《あおぎり》が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三《つねぞう》は閑人《ひまじん》だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気《なまいき》云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこの方《かた》が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭《いや》よまたこないだみたいに、西洋|煙草《たばこ》の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点《とも》っていた。台所ではすでに夕飯《ゆうめし》の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪《ガスしちりん》が二つとも忙がしく青い※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小《ち》さい朱塗の椀《わん》と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載《の》せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家《うち》のものの着更《きがえ》をするために多く用いられる室《へや》なので、箪笥《たんす》が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据《す》えてあった。千代子はその姿見の前に玩具《おもちゃ》のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠《おまちどお》さま」
 千代子が粥《かゆ》を一匙《ひとさじ》ずつ掬《すく》って口へ入れてやるたびに、宵子は旨《おい》しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強《し》いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念《たんねん》に匙の持ち方を教えた。宵子は固《もと》より極《きわ》めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供《おそなえ》のような平たい頭を傾《かし》げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝《ひざ》の前に俯伏《うつぶせ》になった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子を抱《だ》き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応《てごたえ》がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。

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