次のは明石《あかし》から来たもので、前に比べると多少複雑なだけに、市蔵の性格をより鮮《あざ》やかに現わしている。
「今夜ここに来ました。月が出て庭は明らかですが、僕の部屋は影になってかえって暗い心持がします。飯を食って煙草《たばこ》を呑んで海の方を眺《なが》めていると、――海はつい庭先にあるのです。漣《さざなみ》さえ打たない静かな晩だから、河縁《かわべり》とも池の端《はた》とも片のつかない渚《なぎさ》の景色《けしき》なんですが、そこへ涼み船が一|艘《そう》流れて来ました。その船の形好《かっこう》は夜でよく分らなかったけれども、幅の広い底の平たい、どうしても海に浮ぶものとは思えない穏《おだ》やかな形を具《そな》えていました。屋根は確かあったように覚えます。その軒から画の具で染めた提灯《ちょうちん》がいくつもぶら下がっていました。薄い光の奥には無論人が坐《すわ》っているようでした。三味線の音も聞こえました。けれども惣体《そうたい》がいかにも落ちついて、滑《すべ》るように楽しんで僕の前を流れて行きました。僕は静かにその影を見送って、御祖父《おじい》さんの若い時分の話というのを思い出しました。叔父さんは固《もと》より御存じでしょう、御祖父さんが昔の通人のした月見の舟遊《ふねあそび》を実際にやった話を。僕は母から二三度聞かされた事があります。屋根船を綾瀬川《あやせがわ》まで漕《こ》ぎ上《のぼ》せて、静かな月と静かな波の映り合う真中に立って、用意してある銀扇《ぎんせん》を開いたまま、夜の光の遠くへ投げるのだと云うじゃありませんか。扇の要《かなめ》がぐるぐる廻って、地紙《じがみ》に塗った銀泥《ぎんでい》をきらきらさせながら水に落ちる景色は定めてみごとだろうと思います。それもただの一本ならですが、船のものがそうがかりで、ひらひらする光を投げ競《きそ》う光景は想像しても凄艶《せいえん》です。御祖父《おじい》さんは銅壺《どうこ》の中に酒をいっぱい入れて、その酒で徳利《とくり》の燗《かん》をした後《あと》をことごとく棄《す》てさしたほどの豪奢《ごうしゃ》な人だと云うから、銀扇の百本ぐらい一度に水に流しても平気なのでしょう。そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに贅沢《ぜいたく》なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。ただ僕だけは、――こういうとまたあの問題を持ち出したなと早合点《はやがてん》なさるかも知れませんが、僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど屈托《くったく》していないつもりですから安心して下さい。ただ僕だけはと断るのはけっして苦《にが》い意味で云うのではありません。僕はこの点において、叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。僕は比較的楽に育った、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気でいました。着物などでも、母の注意で、人前へ出て恥かしくないようなものを身に着けながら、これが当然だと澄ましていました。けれどもそれは永く習慣に養われた結果、自分で知らない不明から出るので、一度そこに気がつくと、急に不安になります。着物や食事はまあどうでもいいとして、僕はこの間ある富豪のむやみに金を使う様子を聞いて恐ろしくなった事があります。その男は芸者は幇間《ほうかん》を大勢集めて、鞄《かばん》の中から出した札《さつ》の束《たば》を、その前でずたずたに裂いて、それを御祝儀《ごしゅうぎ》とか称《とな》えて、みんなにやるのだそうです。それから立派な着物を着[#「着」は底本では「来」]たまま湯に這入《はい》って、あとは三助《さんすけ》にくれるのだそうです。彼の乱行はまだたくさんありましたが、いずれも天を恐れない暴慢|極《きわ》まるもののみでした。僕はその話を聞いた時無論彼を悪《にく》みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりもむしろ恐れました。僕から彼の所行《しょぎょう》を見ると、強盗が白刃《しらは》の抜身を畳に突き立てて良民を脅迫《おびやか》しているのと同じような感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです。僕はこれほど臆病な人間なのです。驕奢《きょうしゃ》に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して躍《おど》り狂う人の、一転化の後《のち》を想像して、怖《こわ》くてたまらないのであります。――僕はこんな事を考えて、静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。僕も叔父さんから注意されたように、だんだん浮気《うわき》になって行きます。賞《ほ》めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに来たとかで、僕の厭《いや》な東京語ばかり使って、折々詩吟などをやります。その中に艶《なま》めかしい女の声も交《まじ》っていましたが、二三十分前から急におとなしくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。夜もだいぶ更《ふ》けましたから、僕も休みます」
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