翌日《あくるひ》はいつも一人で寝ている時より一時間半も早く眼が覚《さ》めた。すぐ起きて下へ降りると、銀杏返《いちょうがえ》しの上へ白地の手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って、長火鉢《ながひばち》の灰を篩《ふる》っていた作《さく》が、おやもう御目覚《おめざめ》でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べてくれた。僕は帰りに埃《ほこり》だらけの茶の間を爪先《つまさき》で通り抜けて玄関へ出た。その時ついでに二人の寝ている座敷を蚊帳越《かやご》しに覗《のぞ》いて見たら、目敏《めざと》い母も昨日《きのう》の汽車の疲が出たせいか、まだ静かな眠《ねむり》を貪《むさ》ぼっていた。千代子は固《もと》より夢の底に埋《うず》まっているように正体なく枕の上に首を落していた。僕は目的《あて》もなく表へ出た。朝の散歩の趣《おもむき》を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと雑沓《ざっとう》とに染めつけられない安息日のごとく穏《おだ》やかに見えた。電車の線路が研《と》ぎ澄まされた光を真直《まっすぐ》に地面の上に伸ばすのも落ちついた感じであった。けれども僕は散歩がしたくって出たのではなかった。ただ眼が早く覚《さ》め過ぎて、中有《はした》に延びた命の断片を、運動で埋《う》めるつもりで歩くのだから、それほどの興味は空にも地にも乃至《ないし》町にも見出す事ができなかった。
一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、後《あと》から、色沢《いろつや》が好くないよ、どうかおしかいと尋ねた。
「昨夕《ゆうべ》好《よ》く寝られなかったんでしょう」
僕は千代子のこの言葉に対して答うべき術《すべ》を知らなかった。実を云うと、昂然《こうぜん》としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕はそれほどの技巧家《アーチスト》でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕はついに何も答えなかった。
三人が同じ食卓で朝飯《あさめし》を済ますや否《いな》や、母が昨日涼しいうちにと頼んでおいた髪結《かみい》が来た。洗《あら》い立《たて》の白い胸掛をかけて、敷居越《しきいごし》に手を突いた彼女は、御帰りなさいましと親しい挨拶《あいさつ》をした。彼女はこの職業に共通なめでたい口ぶりを有《も》っていた。それを得意に使って、内気な母に避暑を誇の種に話させる機会を一句ごとに作った。母は満足らしくも見えたが、そう蝶蝶《ちょうちょう》しくは饒舌《しゃべ》り得なかった。髪結はより効目《ききめ》のある相手として、すぐ年の若い千代子を選んだ。千代子は固《もと》より誰彼の容赦なく一様に気易《きやす》く応対のできる女だったので、御嬢様と呼びかけられるたびに相当の受答《うけこたえ》をして話を勢《はず》ました。千代子の泳の噂《うわさ》が出た時、髪結は活溌《かっぱつ》で宜《よろ》しゅうございます、近頃の御嬢様方はみんな水泳の稽古《けいこ》をなさいますと誰が聞いても拵《こしら》えたような御世辞を云った。
妙な事を吹聴《ふいちょう》するようでおかしいが、実をいうと僕は女の髪を上げるところを見ているのが好きであった。母が乏《とも》しい髪を工面して、どうかこうか髷《まげ》に結《ゆ》い上げる様子は、いくら上手《じょうず》が纏《まと》めるにしても、それほど見栄《みばえ》のある画《え》ではないが、それでも退屈を凌《しの》ぐには恰好《かっこう》な慰みであった。僕は髪結の手の動く間《ま》に、自然とでき上って行く小さな母の丸髷《まるまげ》を眺《なが》めていた。そうして腹の中で、千代子の髪を日本流に櫛《くし》を入れたらさぞみごとだろうと思った。千代子は色の美くしい、癖のない、長くて多過ぎる髪の所有者だったからである。この場合いつもの僕なら、千代ちゃんもついでに結《い》って御貰いなときっと勧めるところであった。しかし今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向って投げかける気が出悪《でにく》かった。すると偶然にも千代子の方で、何だかあたしも一つ結って見たくなったと云い出した。母は御結《おい》いよ久しぶりにと誘《いざ》なった。髪結《かみい》は是非御上げ遊ばせな、私始めて御髪《おぐし》を拝見した時から束髪《そくはつ》にしていらっしゃるのはもったいないと思っとりましたとさも結《い》いたそうな口ぶりを見せた。千代子はとうとう鏡台の前に坐った。
「何に結おうかしら」
髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然|市《いっ》さんと呼んだ。
「あなた何が好き」
「旦那様《だんなさま》も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」
僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも鈍《どん》に聞こえた。
0 件のコメント:
コメントを投稿