僕は千代子の髪のでき上らない先に二階へ上《あが》った。僕のような神経質なものが拘《こだ》わって来ると、無関係の人の眼にはほとんど小供らしいと思われるような所作《しょさ》をあえてする。僕は中途で鏡台の傍《そば》を離れて、美くしい島田髷《しまだまげ》をいただく女が男から強奪《ごうだつ》する嘆賞の租税を免《まぬ》かれたつもりでいた。その時の僕はそれほどこの女の虚栄心に媚《こ》びる好意を有《も》たなかったのである。
僕は自分で自分の事をかれこれ取り繕《つく》ろって好く聞えるように話したくない。しかし僕ごときものでも長火鉢《ながひばち》の傍《はた》で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使い得るつもりでいる。ただそこまで引き摺《ず》り落された時、僕の弱点としてどうしても脱線する気になれないのである。僕は自分でそのつまらなさ加減をよく心得ていただけに、それをあえてする僕を自分で憎《にく》み自分で鞭《むち》うった。
僕は空威張《からいばり》を卑劣と同じく嫌《きら》う人間であるから、低くても小《ち》さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じてなるべく隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い人とかいうものは、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤《かっとう》を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか有《も》たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えたところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物《きぶつがんぶつ》の名を加える非礼と僻見《へきけん》とを憚《はば》かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥《こうでい》しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪《あくそく》しない手を拱《こま》ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より品《ひん》が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の御蔭《おかげ》、年齢《とし》の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆《ぎゃく》なようで実は順《じゅん》に行くからでもある。――話がつい横道へ外《そ》れた。僕は僕のこせこせしたところを余り長く弁護し過ぎたかも知れない。
僕は今いう通り早く二階へ上《あが》ってしまった。二階は日が近いので、階下《した》よりはよほど凌《しの》ぎ悪《にく》いのだけれども、平生いつけたせいで、僕は一日の大部分をここで暮らす事にしていたのである。僕はいつもの通り机の前に坐《すわ》ったなりただ頬杖《ほおづえ》を突いてぼんやりしていた。今朝|煙草《たばこ》の灰を棄《す》てたマジョリカの灰皿が綺麗《きれい》に掃除《そうじ》されて僕の肱《ひじ》の前に載《の》せてあったのに気がついて、僕はその中に現わされた二羽の鵞鳥《がちょう》[#「鵞鳥」は底本では「鷲鳥」]を眺《なが》めながら、その灰を空《あ》けた作《さく》の手を想像に描《えが》いた。すると下から梯子段《はしごだん》を踏む音がして誰か上って来た。僕はその足音を聞くや否や、すぐそれが作でない事を知った。僕はこうぼんやり屈托しているところを千代子に見られるのを屈辱のように感じた。同時に傍《そば》にあった書物を開けて、先刻《さっき》から読んでいたふりをするほど器用な機転を用いるのを好まなかった。
「結《い》えたから見てちょうだい」
僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。
「おかしいでしょう。久しく結わないから」
「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に結《ゆ》うといい」
「二三度|壊《こわ》しちゃ結い、壊しちゃ結いしないといけないのよ。毛が馴染《なず》まなくって」
こんな事を聞いたり答えたり三四|返《へん》しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。僕の心持が何かの調子で和《やわ》らげられたのか、千代子の僕に対する態度がどこかで角度を改ためたのか、それは判然《はんぜん》と云い悪《にく》い。こうだと説明のできる捕《とらえ》どころは両方になかったらしく記憶している。もしこの気易《きやす》い状態が一二時間も長く続いたなら、あるいは僕の彼女に対して抱《いだ》いた変な疑惑を、過去に溯《さかの》ぼって当初から真直《まっすぐ》に黒い棒で誤解という名の下《もと》に消し去る事ができたかも知れない。ところが僕はつい不味《まず》い事をしたのである。
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