2008年11月17日月曜日

 若葉の時節が過ぎて、湯上《ゆあが》りの単衣《ひとえ》の胸に、団扇《うちわ》の風を入れたく思うある日、市蔵がまたふらりとやって来た。彼の顔を見るや否《いな》や僕が第一にかけた言葉は、試験はどうだったいという一語であった。彼は昨日《きのう》ようやくすんだと答えた。そうして明日《あす》からちょっと旅行して来るつもりだから暇乞《いとまごい》に来たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑ってまた多少の不安を感じた。彼は京都附近から須磨《すま》明石《あかし》を経て、ことに因《よ》ると、広島|辺《へん》まで行きたいという希望を述べた。僕はその旅行の比較的|大袈裟《おおげさ》なのに驚ろいた。及第とさえきまっていればそれでも好かろうがと間接に不賛成の意を仄《ほの》めかして見ると、彼は試験の結果などには存外冷淡な挨拶《あいさつ》をした。そんな事に気を遣《つか》う叔父さんこそ平生にも似合わしからんじゃありませんかと云って、ほとんど相手にならなかった。話しているうちに、僕は彼の思い立《たち》が及落の成績に関係のない別方面の動機から萌《きざ》しているという事を発見した。
「実はあの事件以来妙に頭を使うので、近頃では落ちついて書斎に坐《すわ》っている事が困難になりましてね。どうしても旅行が必要なんですから、まあ試験を中途で已《や》めなかったのが感心だぐらいに賞《ほ》めて許して下さい」
「そりゃ御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも差支《さしつかえ》はないさ。考えて見れば少しは飛び歩いて気を換えるのも好かろう。行って来るがいい」
「ええ」と云って市蔵はやや満足らしい顔をしたが、「実は大きな声で話すのも気の毒でもったいないんですが、叔父さんにあの話を聞いてから以後は、母の顔を見るたんびに、変な心持になってたまらないんです」とつけ足した。
「不愉快になるのか」と僕はむしろ厳《おごそ》かに聞いた。
「いいえ、ただ気の毒なんです。始めは淋《さび》しくって仕方がなかったのが、だんだんだんだん気の毒に変化して来たのです。実はここだけの話ですけれども、近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。今度《こんだ》の旅行だって、かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させてやりたいと思っていたのだから、昔の僕なら供《とも》をする気で留守《るす》を叔父さんにでも頼みに出かけて来るところなんですが、今云ったような訳で、関係がまるで逆になったもんだから、少しでも母の傍《そば》を離れたらという気ばかりして」
「困るね、そう変になっちゃあ」
「僕は離れたらまたきっと母が恋しくなるだろうと思うんですが、どうでしょう。そう旨《うま》くはいかないもんでしょうか」
 市蔵はさも懸念《けねん》らしくこういう問をかけた。彼より経験に富んだ年長者をもって自任する僕にも、この点に関する彼の未来はほとんど想像できなかった。僕はただ自分に信念がなくって、わが心の事を他《ひと》に尋ねて安心したいと願う彼の胸の裏《うち》を憐《あわ》れに思った。上部《うわべ》はいかにも優しそうに見えて、実際は極《きわ》めて意地の強くでき上った彼が、こんな弱い音《ね》を出すのは、ほとんど例《ためし》のない事だったからである。僕は僕の力の及ぶ限り彼の心に保証を与えた。
「そんな心配はするだけ損だよ。おれが受合ってやる。大丈夫だから遊んで来るが好《い》い。御前の御母さんはおれの姉だ。しかもおれよりも学問をしないだけに、よほど純良にできている、誰からも敬愛されべき婦人だ。あの姉と君のような情愛のある子がどうして離れっ切りに離れられるものか。大丈夫だから安心するが好い」
 市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕もやや安心した。けれども一方では、このくらい根のない慰藉《いしゃ》の言葉が、明晰《めいせき》な頭脳を有《も》った市蔵に、これほどの影響を与えたとすれば、それは彼の神経がどこか調子を失なっているためではなかろうかという疑も起った。僕は突然極端の出来事を予想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。
「おれもいっしょに行こうか」
「叔父さんといっしょじゃ」と市蔵が苦笑した。
「いけないかい」
「平生《ふだん》ならこっちから誘っても行って貰いたいんだが、何しろいつどこへ立つんだか分らない、云わば気の向きしだい予定の狂う旅行だから御気の毒でね。それに僕の方でもあなたがいると束縛があって面白くないから……」
「じゃ止《よ》そう」と僕はすぐ申し出を撤回した。

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