2008年11月17日月曜日

松本の話 一

 それから市蔵と千代子との間がどうなったか僕は知らない。別にどうもならないんだろう。少なくとも傍《はた》で見ていると、二人の関係は昔から今日《こんにち》に至るまで全く変らないようだ。二人に聞けばいろいろな事を云うだろうが、それはその時限りの気分に制せられて、まことしやかに前後に通じない嘘《うそ》を、永久の価値あるごとく話すのだと思えば間違ない。僕はそう信じている。
 あの事件ならその当時僕も聞かされた。しかも両方から聞かされた。あれは誤解でも何でもない。両方でそう信じているので、そうしてその信じ方に両方とも無理がないのだから、極《きわ》めてもっともな衝突と云わなければならない。したがって夫婦になろうが、友達として暮らそうが、あの衝突だけはとうてい免《まぬ》かれる事のできない、まあ二人の持って生れた、因果《いんが》と見るよりほかに仕方がなかろう。ところが不幸にも二人はある意味で密接に引きつけられている。しかもその引きつけられ方がまた傍《はた》のものにどうする権威もない宿命の力で支配されているんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用いると、彼らは離れるために合い、合うために離れると云った風の気の毒な一対《いっつい》を形づくっている。こう云って君に解るかどうか知らないが、彼らが夫婦になると、不幸を醸《かも》す目的で夫婦になったと同様の結果に陥《おち》いるし、また夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと択《えら》ぶところのない不満足を感ずるのである。だから二人の運命はただ成行《なりゆき》に任せて、自然の手で直接に発展させて貰《もら》うのが一番上策だと思う。君だの僕だのが何のかのと要《い》らぬ世話を焼くのはかえって当人達のために好くあるまい。僕は知っての通り、市蔵から見ても千代子から見ても他人ではない。ことに須永《すなが》の姉からは、二人の身分について今まで頼まれたり相談を受けたりした例《ためし》は何度もある。けれども天の手際《てぎわ》で旨《うま》く行かないものを、どうして僕の力で纏《まと》める事ができよう。つまり姉は無理な夢を自分一人で見ているのである。
 須永の姉も田口の姉も、僕と市蔵の性質が余りよく似ているので驚ろいている。僕自身もどうしてこんな変り者が親類に二人|揃《そろ》ってできたのだろうかと考えては不思議に思う。須永の姉の料簡《りょうけん》では、市蔵の今日《こんにち》は全く僕の感化を受けた結果に過ぎないと見ているらしい。僕が姉の気に入らない点をいくらでも有《も》っている内で、最も彼女を不愉快にするものは、不明なる僕のわが甥《おい》に及ぼしたと認められているこの悪い影響である。僕は僕の市蔵に対する今日までの態度に顧《かえり》みて、この非難をもっともだと肯《がえん》ずる。それがために市蔵を田口家から疎隔したという不服もついでに承認して差支《さしつかえ》ない。ただ彼ら姉二人が僕と市蔵とを、同じ型からでき上った偏窟人《へんくつじん》のように見傚《みな》して、同じ眉《まゆ》を僕らの上に等しく顰《ひそ》めるのは疑もなく誤っている。
 市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲《ま》き込む性質《たち》である。だから一つ刺戟《しげき》を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰い込んで行く。そうしてどこまで喰い込んで行っても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。しまいにはどうかしてこの内面の活動から逃《のが》れたいと祈るくらいに気を悩ますのだけれども、自分の力ではいかんともすべからざる呪《のろ》いのごとくに引っ張られて行く。そうしていつかこの努力のために斃《たお》れなければならない、たった一人で斃れなければならないという怖《おそ》れを抱《いだ》くようになる。そうして気狂《きちがい》のように疲れる。これが市蔵の命根《めいこん》に横《よこた》わる一大不幸である。この不幸を転じて幸《さいわい》とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲《ま》き出させるよりほかに仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を眺《なが》める心持で眼を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美くしいものか、優《やさ》しいものか、を見出さなければならない。一口に云えば、もっと浮気《うわき》にならなければならない。市蔵は始め浮気を軽蔑《けいべつ》してかかった。今はその浮気を渇望している。彼は自己の幸福のために、どうかして翩々《へんぺん》たる軽薄才子になりたいと心《しん》から神に念じているのである。軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う途《みち》は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。けれども実行はいまだにできないでもがいている。

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