2008年11月17日月曜日

 僕はかつてある学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑《うわすべ》りにならなければ必ず神経衰弱に陥《おち》いるにきまっているという理由を、臆面《おくめん》なく聴衆の前に曝露《ばくろ》した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、かえって知らぬが仏《ほとけ》ですましていた昔が羨《うらや》ましくって、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論などもあるいはそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退《しり》ぞいた。僕はその時市蔵の事を思い出して、こういう苦《にが》い真理を承《うけたま》わらなければならない我々日本人も随分気の毒なものだが、彼のようにたった一人の秘密を、攫《つか》もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層|見惨《みじめ》に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺《そそ》いだ。
 これは単に僕の一族内の事で、君とは全く利害の交渉を有《も》たない話だから、君が市蔵のためにせっかく心配してくれた親切に対する前からの行《ゆき》がかりさえなければ、打ち明けないはずだったが、実を云うと、市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っているのである。
 僕は誰にでも明言して憚《はば》からない通り、いっさいの秘密はそれを開放した時始めて自然に復《かえ》る落着《らくちゃく》を見る事ができるという主義を抱《いだ》いているので、穏便とか現状維持とかいう言葉には一般の人ほど重きを置いていない。したがって今日《こんにち》までに自分から進んで、市蔵の運命を生れた当時に溯《さかのぼ》って、逆に照らしてやらなかったのは僕としてはむしろ不思議な手落と云ってもいいくらいである。今考えて見ると、僕が市蔵に呪われる間際《まぎわ》まで、なぜこの事件を秘密にしていたものか、その意味がほとんど分らない。僕はこの秘密に風を入れたところで、彼ら母子《おやこ》の間柄が悪くなろうとは夢にも想像し得なかったからである。
 市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っていたという僕の言葉の裏に、どんな事実が含まれているかは、彼と交《まじわ》りの深い君の耳で聞いたら、すでに具体的な響となって解っているかも知れない。一口《ひとくち》でいうと、彼らは本当の母子ではないのである。なお誤解のないように一言《いちげん》つけ加えると、本当の母子よりも遥《はる》かに仲の好い継母《ままはは》と継子《ままこ》なのである。彼らは血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑《けいべつ》しても差支《さしつかえ》ないくらい、情愛の糸で離れられないように、自然からしっかり括《くく》りつけられている。どんな魔の振る斧《おの》の刃《は》でもこの糸を絶ち切る訳に行かないのだから、どんな秘密を打ち明けても怖《こわ》がる必要はさらにないのである。それだのに姉は非常に恐れていた。市蔵も非常に恐れていた。姉は秘密を手に握ったまま、市蔵は秘密を手に握らせられるだろうと待ち受けたまま、二人して非常に恐れていた。僕はとうとう彼の恐れるものの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べてやったのである。
 僕はその時の問答を一々くり返して今君に告げる勇気に乏しい。僕には固《もと》よりそれほどの大事件とも始から見えず、またなるべく平気を装う必要から、つまり何でもない事のように話したのだが、市蔵はそれを命がけの報知として、必死の緊張の下《もと》に受けたからである。ただ前の続きとして、事実だけを一口に約《つづ》めて云うと、彼は姉の子でなくって、小間使の腹から生れたのである。僕自身の家に起った事でない上に、二十五年以上も経《た》った昔の話だから、僕も詳しい顛末《てんまつ》は知ろうはずがないが、何しろその小間使が須永の種を宿した時、姉は相当の金をやって彼女に暇を取らしたのだそうである。それから宿へ下《さが》った妊婦が男の子を生んだという報知を待って、また子供だけ引き取って表向《おもてむき》自分の子として養育したのだそうである。これは姉が須永に対する義理からでもあろうが、一つは自分に子のできないのを苦にしていた矢先だから、本気に吾子として愛《いつく》しむ考も無論手伝ったに違ない。実際彼らは君の見るごとく、また吾々《われわれ》の見るごとく、最も親しい親子として今日《こんにち》まで発展して来たのだから、御互に事情を明《あか》し合ったところで毫《ごう》も差支《さしつかえ》の起る訳がない。僕に云わせると、世間にありがちな反《そり》の合《あわ》ない本当の親子よりもどのくらい肩身が広いか分りゃしない。二人だって、そうと知った上で、今までの睦《むつ》まじさを回顧した時の方が、どんなに愉快が多いだろう。少なくとも僕ならそうだ。それで僕は市蔵のために特にこの美くしい点を力のあらん限り彩《いろど》る事を怠《おこた》らなかった。

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